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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170319 ヨハネ9:35-41 「失われた羊は見つけられ」

ヨハネ9:35-41 「失われた羊は見つけられ」

 イエス様によって目が癒やされた盲人は、そのお方が神から出た方と証言したことで、会堂から追い出されました。これは社会的な死を意味します。目が癒やされて希望を抱いたのもほんのひとときの事でした。さぞかし悲嘆に暮れたことでしょうか。自分の強情さを後悔したでしょうか。しかし、そうはなりませんでした。イエス様が彼を見つけ出されたからです。
 イエス様は彼に声をかけます。「あなたは人の子を信じますか。」ここで言う「人の子」とは旧約聖書でしばしばメシヤを現す用語です。つまり、イエス様は「あなたは救い主を信じますか。」と尋ねているのです。もちろん。彼はそのつもりです。けれど、その救い主がどこにいる誰なのか、彼は知りません。ましてや目の前で語りかけられる方がそうだと、彼に言い切れるはずがありません。そんな彼にイエス様は「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」と。彼は間髪を入れずに応えます。「主よ。私は信じます。」彼はイエス様の前に平伏したのでありました。
 さて、イエス様は「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と言っています。この「さばき」とはもともとは「切れ目を入れる。分け目をいれる。」絡みついているものをきれいに解きほぐして分けるという意味です。では何と何を分けられるために来られたのか。それは見える者と見えない者とをです。ただし、単純に目が見える見えないというわけではありません。41節を見ると「私たちは目が見える。」と言っている者こそが見えない者。霊的に盲目な罪人だと、こう言っています。パリサイ人たちは、私たちは目が見える、罪の結果である盲人たちとは違うと誇っていました。だからこそ、彼らは自らの罪に気付かない霊的な盲目です。盲目かそうでないか、それは自らの罪に対して、盲目かそうでないか。イエス様はここをさばかれる。ここに線引をされるために来られたのです。
 そう考えると、盲人が宮から追い出されるという出来事を否定的にばかり見るのは間違いではないでしょうか。なぜなら、彼は宮を追い出されて後、主イエスの礼拝に招かれたからです。彼は仕分け線を越えたのです。
 覚えておきたいのは、神は、イエス様は、見つけ出してくださる方だと言うことです。信仰のゆえに居場所を失った一人ひとりをイエス様は決して放ってはおきません。主イエスを信じる信仰のゆえに宮から追い出される。私たちはこのことを恐れます。不安を感じます。何か私たちの根本が失われるような気がして、現状に留まろうとします。しかし、そうではないのです。宮から追い出された彼は、主イエスの交わりに招かれたのです。主イエスの礼拝がそこにはあったのです。失うよりも更に大きな祝福を用意して主イエスは声をかけられるのです。
 目が見えなかったその人が、今、目が開かれて主イエスを救い主として見上げる者とされました。この一連の盲人の癒やしは、このところまでを含んでが癒やしなのです。イエス様を信じて終わりではありません。それではその人はあらゆる関係から締め出されたままです。そうではない。その人は主イエスの礼拝に入れられるのです。教会に加えられるのです。私たちはキリストを信じるがゆえに、世と一線を引く者です。区別された者です。けれど、不安がる必要がありません。それは同時に主イエスの礼拝に、主イエスの教会に加えられたということだからです。

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