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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170430 ヨハネ10:31-42 「主のわざの目的」

ヨハネ10:31-42「主のわざの目的」

 イエス様を再び石打ちにしようとする、ユダヤ人指導者たちに問いかけられます。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」すると、ユダヤ人たちは答えます。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
 確かに、自分自身を神と等しくするなど、冒涜と言われても仕方ありません。彼らの指摘は一見正しく聞こえます。しかし、考えなければならないのは、それを指摘する彼らはいったい何者か、ということです。
 イエス様はここで詩篇82篇のみことばを引用します。どういう意味でしょうか。単に聖書でそういう前例があるんだから、私も別に神の子と言ってもいいでしょ。という意味でしょうか。けれど、実際に引用された詩篇82篇を見てみますと、そう単純な話ではないように思います。
 82篇1節「神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真中で、さばきを下す。」この箇所で、神々の真中でとあります。これは神が他の神々を認めているということではありません。これは神の任命を受けて、裁きの務めを果たしている者たちのことです。その彼らの真中で神はさばきを下す。つまり、彼らが下す裁きに権威を与えているのは神だということです。そして、そういう神のさばきを司る彼らのことを、当時、尊敬を込めて『神々』と呼んでいたのです。6節にも「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」とあります。では、神々と呼ばれた人々が素晴らかったかと言いますと、むしろ人々から神々と呼ばれているその人を非難している。神の尊い務めを担うべきあなたがたが、いったいどういうつもりで不正なさばきを行なっているのか。と、こう言っています。そして8節「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。」と、真のさばき主なる神を讃美して閉じられるのです。
 この詩篇82篇をイエス様は引用されるのです。ユダヤ人指導者たちは、イエス様が神の子と語るそのことを非難し、さばきます。けれど、他人をさばく彼らこそ、神の子と呼ばれる尊い使命についていたのではなかったでしょうか。そして、そのような者こそ自らの身を深く省みなければならないのではなかったか。つまり、あなたたちこそ、本来神の子と呼ばれるべき者たちではないですか。そして、あなたたちこそその使命に相応しくあるべき者ではないですか。では、あなたたちの成しているわざはいったい何なのですか。とこのように問うているのです。
 イエス様はご自身のわざについて語られます。そのわざを見れば、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知る。とこう語られます。そして事実、イエス様の良いわざは、指導者たちも認めざるを得ないものでした。今、神の子としてその使命を帯びている、2組の対照的な姿があるのです。愛のわざに励み、それによって神の栄光を現すイエス様。そして、他人の粗を探しては、非難し陥れようとする指導者たち。果たしてそのわざは、どちらが父なる神と共にいることを証しするでしょうか。
 イエス様のわざは、神の愛を体現したものです。失われた者が見つけられ、死んでいた者が生き返り、孤独の内にある人、何の希望も見いだせずにいた人、自分自身の存在する価値をまったくに見出せない人、そのような一人ひとりが、イエス様のわざによって愛を知り、神を知ったのです。イエス様のわざは単なる奇跡や振る舞いに留まりません。その人の生き方そのものを変えるわざ。それはその人に目を留め、関わろうとし、実際に足を運ばれる。神の愛に基づくものだからです。では、果たして、私たちのそれは神の愛に基づくものでしょうか。

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