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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170507 出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

 主の御名をみだりに唱えてはならない。とあります。「みだりに」というのは、「むやみやたらに」とか「無計画に」とか「考えなしに」という意味です。むやみやたらに御名を唱えてはいけない。つまり、主の御名を軽んじてはいけないよ。という意味です。
 ですから、イスラエルの民は、神の御名を唱えることに、とても慎重でありました。その昔、モーセが神にイスラエルの民を引き連れてエジプトから連れ出すよう命じられたときのことです。モーセは神の名を尋ねました。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』というものである。」この『わたしはある』というのが神様の実態を表す名前です。ヤハウェという名前です。イスラエルの民は、このヤハウェという名前をむやみやたらに唱えないように、その名を読む時にはアドナイ(我が主)と読み替えるほどに徹底していました。それは彼らの信仰の現れです。けれど、それは果たして主なる神の望まれるところでしょうか。罰を恐れて、単にその名前を口にしなければいいと考えている民。その結果、神の御名の発音すら失ってしまう民。そのような関係を主なる神が求めておられるとは到底思えません。
 むやみやたらに御名を唱えない。それはつまり、自分のために神の名を利用しない。神を私物化しないということです。神は私たちの願いを適えるための便利な道具でしょうか。それとも私たちを権威付けるための何かでしょうか。私たちがもし、神を私物化し、自己実現のために利用するとしたら、どれだけ神の御名を呼び替えようとも、それはこの第3戒を破っているのです。イエス様を誘惑するために、サタンは神の言葉を引用しました。自らの考えを神によって権威付けようとしたのです。文脈を無視して、自分の都合のよい解釈だけで神のみことばを語る。これは異端やカルトの典型的な特徴です。信じてもいないのに口先だけで祈ったり、ポーズだけの信仰であったりということもまた同じです。平日神を忘れて過ごし、休みの日にだけ信仰者を気取るのもそうでしょう。私たちはあまりにも軽々しく主の御名を口にします。しかし、その結果がもたらす悲劇には一向に目を向けていません。「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」と言われているのです。
 みだりに唱えることが禁じられているのです。つまり、正しく主の御名が唱えられることは禁じていません。いえ、むしろ、そうあるようにという暗黙の期待がここには込められています。ハイデルベルク信仰問答の問99の答えにこのようにあります。「要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」間違いのないように口を閉じたり、呼び名を変えたりということが求められているのではありません。キリスト者として正しく主の御名を用いなさい。ということです。
 では正しく主の御名を用いるとはどういうことでしょうか。それは畏れと敬虔によってということでしょう。裏表なく真心からということでしょう。主はからし種ほどの信仰があれば、山をも動かすとおっしゃいました。けれど、私たちはどこかで疑っています。山よ動けと祈りながら、山など動くはずがないと思っています。神を信じますと言いながら、神などいないと疑ってしまいます。エレミヤ33:2-3には次のようにあります。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」神を信頼する者の声を、神は遮ることはなさいません。むしろ、わたしを呼べとおっしゃってくださる。私たちは主の御名をみだりに唱えてはいけません。本気で唱えるのです。そこには私たちの理解を越えた主の大いなる答えが用意されているからです。

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