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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170514 ヨハネ11:1-16 「私たちは神の栄光のために」

ヨハネ11:1-16「私たちは神の栄光のために」

 エルサレムから南東わずか3kmという位置にベタニヤという小さな村がありました。イエス様はエルサレムを訪れるとき、このベタニヤのマルタとマリヤ、そしてラザロの家によく滞在されました。イエス様にとって、この兄弟は、この家族は、特別な存在でした。心許せる友のような存在でした。そのラザロの危篤の知らせがイエス様の下へとやって来たのです。これはイエス様としても気が気でなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、ラザロの大病を聞きながらも、なお2日間、そのところに留まられました。これはいったいどういうことなのでしょうか。イエス様は、たった一人を救うために、ある時は敵対するサマリヤの地に足を運ばれ、ある時は荒れ狂うガリラヤ湖を超えて対岸まで行かれます。私たちが知るイエス様は、何を置いてでもラザロの下に駆け付けるお方ではなかったでしょうか。ところが、イエス様はラザロの一報を聞いても決して慌てず、尚も2日間その所に滞在されたのです。
 5節には「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。そして6節には「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かされたときも、そのおられた所に二日とどまられた。」とあります。ここが納得いかないのです。イエス様は愛していたから、とどまられた。と言います。けれど、私たちは思います。愛していたのに、とどまられたのか。とです。愛するということと、とどまるということが、どうしても結びつかないのです。
 たとえ、間に合わなくてもです。すぐに駆けつけたというその事実が、マルタとマリヤを慰めるのではないでしょうか。イエス様は急いで駆けつけて来てくれた。確かに間に合わなかったけれど、イエス様はラザロのために精一杯を尽くしてくれた。だから、これは仕方がなかったんだ。という具合にです。残されるマルタとマリヤを想えば、一刻でも早く駆け付けるのが愛ではないでしょうか。私たちも葬儀をします時に、それは何のためにするのか、と言えば、それは残された者たちの慰めのためにするわけです。イエス様は、そんなこともわからないんでしょうか。やっぱり神の御子である方は、人情の機微に疎いお方なのでしょうか。
 もしもこれがイエス様でなければ、それは人情がない話となるでしょう。けれど、そうではないのです。イエス様はこの出来事を、全く別の見方をしています。イエス様は「私たちの友ラザロは眠っています。」と言うのです。人々は皆、ラザロは死んだといいます。そして事実ラザロは死にました。けれど、イエス様だけは、そのラザロを眠っていると言われる。言うことができる。なぜなら、イエス様にはラザロを再び目覚めさせる権威があるからです。
 イエス様はラザロの死に際して言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」わたしはラザロたちを愛している。だからこのところに留まった。なぜなら、これこそが神の栄光のためだからだ。とこう言われます。ラザロを再び目覚めさせるお方にとって、どれだけ早く駆けつけるかということに関心はありません。それよりも、ラザロが神の栄光のために用いられるために、そしてラザロの死が意味あるものとされるために。これがイエス様の関心事です。だから留まられた。誰もが否定できない神の栄光のわざを為さるためにです。もしかしてとか、偶然が重なってとか、そういう余地の少しもないように。それゆえラザロの確かな死は、イエス様の確かな栄光へと繋がっていくのです。
 私たちは何のために生き、何のために死ぬのでしょうか。それは神の栄光のために生き、神の栄光のために死ぬのです。多くの人にとって死は終わりであり、敗北であり、そこに大した意味はありません。寿命だからと諦めるか、運が悪かったとするか。しかし、私たちは死すらも用いられるのです。パウロは言います。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)私たちにとって死は勝利と変えられているのです。

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