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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170521 ヨハネ11:30-46 「その石をとりのけなさい」

ヨハネ11:30-46 「その石をとりのけなさい」

 マルタからの使いを受けてマリヤもイエス様のもとにやって来ました。マリヤもマルタと同じ反応をいたします。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」しかしこれは、マリヤだけではありません。マリヤと一緒にいたユダヤ人たちも皆同じ復活信仰を持ち、そして、それゆえに悲しみの内に打ちひしがれているのです。
 イエス様は、彼女たちの涙を見て、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そして、涙を流される。なぜでしょうか。死がそれほどまでに彼らを縛り付けているということに憤り、そして涙されたのです。神の子キリストであると信じているはずのイエス様に対してですら、不満の声を上げずにはいられない。それほどまでに死の力は人々を一切の悲しみで塗り潰してしまうわけです。この状況に対して、イエス様は憤りを覚えるし、また同情される。誰にも訪れる死を、そんな絶望だけのものにしている罪に対して、サタンに対して憤っておられるのです。本来と言いますか、イエス様にあっては死というものは、単なる絶望ではありません。それは、永遠への希望です。神ともにある永遠です。パウロという人は「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:23)と言っていますが、これはまさしくそうなのです。けれど、私たちは愛する人を失ったとき、とてもそんな気持ちで送ることはできません。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言わずにはおられない。なんであの人が死ななければならなかったんですか。なんでこんなにも早くに命をとりあげられたんですか。そう叫ばずにはいられない。これはもうその人のせいではなくて、死というものそのものの意味が塗り変えられているのです。そして、イエス様はこのような現状に対して憤られるのです。
 そうじゃないとイエス様は言われます。わたしを信じるなら、あなた方は死を前に、まったく別のものを見るんですよと。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。そして、そのことを証明するために、イエス様は命じられるのです。「その石を取りのけなさい。」これはいわば試金石ですね。
 常識で考えれば、そのことに何の意味もないのです。死体はもう腐っているでしょうし、そこに現れるのは、愛する者の朽ちた姿です。それは見たくない現実です。今は目を瞑れば明るく元気だったラザロが思い浮かびます。けれど、もしもその朽ち果てた姿を目にすれば、もうそこには生前の美しい思い出すら上書きされてしまう。その強烈な現実は、彼を思う度に目に浮かぶことでしょう。そんなことにいったい何の意味があるのか。なんでそんな残酷なことを言われるのか。人々は彼女たちを気遣って、思ったことでありましょう。しかし、だからこそ、イエス様は命じられるのです。「その石をとりのけなさい。」それは言いかえるならば、「わたしを信じなさい」とです。
 求められているのは、理解できるか。ではありません。信じるか。です。信じて石を取り除けるか。信じて一歩を踏み出すかです。これが大事です。私たちの常識に照らせば、腑に落ちないこともたくさんあるでしょう。理解の及ばないこともある。いったい何の意味があるのかと思う。けれど、だから何だと言うのでしょう。問われているのは、理解できるかではありません。それでもわたしを信じるかです。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」皆さんはこの問いかけに何と答えるでしょうか。わからないから信じないと言われるでしょうか。私たちは石を取り除くべきです。それは常識という石。現実という石。理解という石。こうでなければならないという自己正義の石。イエス様のみわざはその石の向こうにあります。世の中には、人生には、理解できないこと、受け入れがたいことが沢山あります。けれど、それを妨げの石としてはいけません。なぜなら、神のなさることは、私たちの思いも理解も遥かに超えた、その石の向こうにあるからです。

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