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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170604 出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

 この戒めは、私たちクリスチャンにとって、一番身近に試される戒めではないかと思います。毎週日曜日になる度に、試されている戒め。しかも、これが安息日と呼ばれている。平日、働き詰めで来た者にとって、日曜日にも教会に行くのなら、それは安息ではないじゃないか。と思われるかもしれません。日曜日は休む日と言うのに、教会で奉仕に追われて、いったいどこが安息なのかとです。しかし、これはどうも安息ということの意味を誤解していることから来るのではないかと思います。私たちは今一度、安息とは何かと問う必要があるように思います。
 なぜ日曜日は取り分けられたのかという話です。それは11節「それは主が六日の内に、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」主は六日間創造の働きをなされ、七日目に休まれた。この主が休まれたことに倣ってということです。では休むとはどういう意味でしょうか。何もしない。という意味でしょうか。いやいや、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とも言います。主が七日目に、何もしていないことではありません。主は七日目も神の民を守っておられます。ですから、私たちは、短絡的に安息日=何もしないと考えることは間違いです。第4戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。つまり、安息は、聖なる日を持つための下準備だということです。休むことの先がある。むしろそこが大切だと言うのです。ですから、安息とは何もしないことではなくて、聖なる日を持つために、働きを止めるという意味です。神の恵みを受け取るために、今、係わっている仕事。抱え込んでいる悩み。日々置かれている日常からひととき離れなさいと言っているのです。
 週の初めに敢えて日常を離れて神を想うということに意味があるのです。教会は忙しいと感じる方もおられるかもしれません。しかし、日常のままに過ごしては駄目なのです。私たちを思い煩わせる日々の出来事に埋もれてしまってはいけないのです。それらは神の恵みを見失わせます。
 学生の頃、毎度毎度の礼拝に嫌気が差して、何度かズル休みをしたことがあります。いつもよりも遅い時間に起きて、だらだらと午前中を過ごし、午後は久しぶりの友人を誘って遊びに行きました。普段ではできない日曜日を過ごしました。けれどです。一日、思う存分過ごしたようでいて、ずっと付きまとうのは罪悪感。そして、居心地の悪さ。私にとって、礼拝がいかに大切かを思い知る結果となりました。けれどです。休みが続けばどうでしょう。罪悪感がある内はまだ良いのです。けれど私たちはすぐに慣れます。そして、どうでも良くなってしまう。主の前に日を取り分けることを止めてしまえば、その日は自分だけのもの。もはや神に生かされていることすらも覚えず、その恵みに目を向けることもない。それは楽な生き方のように思えるかもしれない。自由な生き方のように見えるかもしれない。しかし、最も大切なものを失うこととなるのです。
 7日間全てを自由とはしないで、一日は神の日とする。制限ある自由が、実は大事です。それによって私たちは、神を神とし、恵みに生かされることを知るのです。

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