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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170625 ヨハネ12:1-8 「罪は目を曇らせる」

ヨハネ12:1-8 「罪は目を曇らせる」

 今日の話の晩餐は、どうやらマリヤの家ではなくて、らい病人シモンの家で持たれたようであります。そこにマルタは給仕を取り仕切る者として手伝いに行き、ラザロは客の一人として参加していました。ではマリヤはと言いますと、フラフラとやって来たかと思うと、おもむろにナルドの香油をイエス様の足に塗り、髪の毛でぬぐったのです。いったい何事ぞと、その場は騒然となった次第です。私たちが普段香水を使う時には、ほんの1滴を伸ばして使います。それで十分だからです。ところが、この時、イエス様に塗られたと言いましょうか、掛け流された香油の量は300gでした。つまり、一瓶全部を掛けきったわけです。いったいどれほどの匂いが立ち籠もったことでしょう。もはや晩餐どころの話ではありません。
 弟子たちは当然、マリヤに憤慨いたします。それはそうでしょう。私がその場にいてもやはり怒ると思います。突然、自分たちの大切な先生が油まみれにされたのです。先生との大事な晩餐の席を台無しにされたのです。怒らないわけがない。ところが、実際の弟子の叱責の言葉を聞きますと、どうもしっくり来ません。
 弟子の一人のユダが言いました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ユダの指摘は極めて冷静な分析による言葉です。ユダはこの騒動の中、マリヤがイエス様にかけた香油の量とその質を見て取って、瞬時にこれを300デナリと見積もり、そしてその相応しい使いみちを指導するのです。300デナリというのは、当時の1日の労働者の賃金がおよそ1デナリですから、300人分の賃金に当たる値段です。ですから、確かにユダが言うように、イエス様にかけたその香油を売って貧しい人々に施せば、300人もの人が潤うのです。ユダの指摘は、確かにその通りです。
 けれどです。やっぱりどこか違和感を感じるのです。私だったら、まず口に出るのは「先生に何をするんだ!」という咄嗟の言葉だと思います。ところがユダの言葉はそうじゃない。イエス様が油まみれになっているこの状況で、イエス様ではなくて、香油の心配をしています。そんなもったいない使い方をしてどうするんだ、とです。このユダの、状況に対する関心の寄せ方に違和感を感ずるのです。いや、今はそこじゃないでしょ。と突っ込みたくなるのです。
 すると、ヨハネはこの違和感の正体を明らかにしています。それは、会計を務めていたユダは、実は前々から預かっていたお金を使い込んで穴を空けていた、と言うのです。つまり、彼の関心事はいつも、皆にばれる前にどうやってこの穴を埋めるかだったということです。ですから彼は何をしていても、何を見ても、全部お金と結び合わせてしまう。そんな折に、マリヤが事件を起こした。咄嗟に頭に浮かんで口にしたのが「もったいない」。つまり、それは彼自身の後ろめたさから来るところの怒りなのです。その証拠に、彼はこの後、祭司長たちのところに出向いていきまして、「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」と持ちかけたことが、マタイの福音書に記されています。イエス様を売ってまでも、自分の罪が明るみに出ることを防ぎたい。罪をごまかすために、別の罪を犯していることにも気付かない。罪はその人の目を曇らせてしまうものなのです。
 イエス様はマリヤの奇行は、イエス様の葬りのためだと言います。もちろん、マリヤがどれだけイエス様の死を把握していたかは正直微妙です。けれど、一連の奇妙な行動の背景には、イエス様の身を案じ、気懸かりに思うマリヤがいるということは確かです。彼女は事前の手配書を見て心配していたのです。できることなら、このままエルサレムには向かわずに、どこかに逃げて欲しい。けれど、晩餐の様子を伺っていると、イエス様はエルサレムに行くことを決めてしまっておられる。このままではイエス様は捕らえられてしまう。殺されてしまう。でも私にはイエス様を引き止めることはできない。こういう葛藤の中での、彼女の咄嗟の振る舞いが、イエス様に香油を掛ける、つまり葬りの儀式だったということではないでしょうか。
 ユダは咄嗟にマリヤを非難しました。それは彼の抱える後ろめたさのゆえにでした。マリヤは咄嗟にイエス様の埋葬の備えをしました。それは彼女がイエス様を想うがゆえにでした。私たちの咄嗟の振る舞いは、全て私たちの抱える心から出るものです。ですから、私たちは心の一新によって変わらなければなりません。私たちの心が恵みと感謝で満ちているなら、私たちの口から出るものは、決して人を汚しません。しかし罪で満ちているならば、私たちは周囲を汚すしかできないのです。心の一新は御霊によってです。

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