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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/03/22 創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

創世記49:1-33 「おのおのにふさわしい祝福」

 ヤコブの臨終間際の場面です。12人の息子に囲まれて、息を引き取る間際、ヤコブは彼ら一人一人に最期の言葉をかけていきます。
 しかし、その内容を見てみますと、素晴らしい恵みの約束から、呪いと呼べるような酷な内容まで様々です。これを聖書は「おのおのにふさわしい祝福」と呼んでいるわけです。ヤコブは主からの幻によって「終わりの日に(つまり後の日、主にカナン定住時代に)起こること」についてを語るわけですが、たとえ厳しい呪いのような言葉であっても、やはりそれは相続すべき祝福なのだと言うのです。なぜなら、それは決して不当な扱いではなくて、その子たちのこれまでの生き方にふさわしい「行いの結ぶ実」であるからです。
 そうではないでしょうか。ルベンから祝福が取り去られるのは自業自得です。レビやシメオンが兄弟たちの間で散らされるのは当然の報いです。一方ヨセフやユダが多くの祝福に与るのはそれに相応しい活躍があったからです。エレミヤ17:10には「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」とあります。ローマ2:6にも「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」とあります。生き方に応じた報いを受ける。実はこれは聖書が語るところの真理なのです。
 そうでなければ、私たちの生き方は今だけを見る生き方となるでしょう。自分の欲望のままに、自分の感情のおもむくまままに。先のことを考えなくても良いのですから、私たちは今の損得だけを考えて振る舞うことになるでしょう。しかし私たちの生き方にはそれに応じた報いがある。ですから、私たちは自らの生き方に襟を正すことができるのです。
 私たちにとって、行ないに従って報いがある。これは、私たちの信仰生活の支えであり土台です。しかし一方で、それは私たちの不安でもあるのです。なぜなら私たちが自らの行ないを省みるとき、私たちは決して神に誇れる者ではないからです。神は私の一切をご存知です。この神の前に後ろめたさも感じずにいられる人がどれだけいるでしょうか。しかし神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」(詩篇103:10)のです。ですから救いの問題と、行いに対する報いの問題を一緒する必要はありません。私たちの救いは、キリストの義のゆえに与えられた恵みにほかならないからです。

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