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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170709 ヨハネ12:9-19「王の入城」

ヨハネ12:9-19 「王の入城」

 いよいよ過ぎ越しの祭の1周間が始まります。ベタニヤの村に滞在されていたイエス様はエルサレムへと向かわれます。この時、イエス様を捕らえる手配書は隅々まで行き渡っていました。さぞかし、ドキドキ、ビクビクだったことでしょうか。エルサレムのような大きな町は城壁によって囲まれておりましたから、町に入るにはその城壁にある幾つかの門をくぐるしかありません。門には必ず駐屯する兵士と取税人が控えていて、一人ひとりの入城を細かにチェックしています。当然、この門番にも手配書は配られているわけです。どうでしょう。変装をしたり、身分を偽ったり、顔に覆いをかけたり。でもそれも賭けですね。門番の中に一人でも見知った者がいればアウトです。まぁイエス様は気にしなそうですが、弟子たちはそんなには平静ではいられない。きっとエルサレムの町に入るために、あれこれと知恵を絞っていたのではないかと思うのです。ところが、そのような不安は全くの杞憂に終わります。なぜなら、イエス様が来られることを聞いて、大勢の人々が駆けつけて、とても取り締まりなどできない異常な盛り上がりを見せたからです。下手にイエスに手を出せば、群衆たちがどうするかわからない。群衆に迎え入れられて、イエス様は堂々とエルサレムへと入って行かれたのでした。
 群衆のこの異常な盛り上がりはいったい何なのでしょうか。ここに「しゅろの木の枝を取って」とあります。実はここに人々の感情が表れています。以前、宮清めの祭りについて説明いたしましたけれども、シリヤ・セレウコス朝のアンティオコス四世エピファネスの時代に、偶像によって神殿が徹底的に汚されるということが起こりました。これに対して、祭司マタティアが民に武装蜂起を呼びかけ、その息子のユダ・マカバイの時代になってユダヤは完全な独立を果たします。この時、宮清めがなされるわけですが、記録では「彼らは、蔦をもて飾りたる杖と、美しき小枝と、しゅろの葉とをかざして、おのが聖所の清めをなしとげ給いし主に、感謝の歌をささげたり。」とあるのです。
 さて、このような歴史を知りますと、群衆が今、このしゅろの枝を振って、イエス様を出迎えるという意図がわかります。それはつまり、イエス様が第2のユダ・マカバイオスとして、ローマの支配を打ち破ってくれることを期待しているのです。
 これに対して、イエス様はロバの子を見つけて、それに乗られた。とあるのです。イエス様は王であることを否定されません。しかし、どのような王か。それは人々が期待するような、皆を奮い立たせて、武装蜂起を起こさせ、やがては国を独立へと導く革命家のような王ではないと言うのです。ここでは、ゼカリヤ9:9の御言葉が引用されています。つまり、その王は柔和な王だと言うのです。ロバの子はその象徴です。群衆たちがイエス様に期待する王の有り様と、イエス様の示される王の姿との間には、天と地ほどの違いがあるのです。
 さて、今日の箇所から、私たちは何を悟るのでしょうか。それは、私たちは私たちの望む救い主を見たがるということです。イエス様ならこうあって然るべき。神様なら私の願いに直ちに応えるべき。いつの間にか、その主従を入れ替えて、奴隷のように神を見下してしまうのです。そして、そのような一方的な期待は、当てが外れると今度は一方的な敵意として向けられることとなるのです。
 私たちが私たちの望む救い主をイエス様に求めるなら、私たちの期待は裏切られるかもしれません。けれどそれは、主が裏切ったのではありません。私たちの主に対する有り様が間違えているのです。マリヤは御使いの驚くべき預言を聞いて言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ペテロはイエス様に深みに漕ぎ出して、網をおろすように命じられた時、言いました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
 私たちは、イエス様が現されるところを見て、イエス様が語られる所を聞くのです。これが信仰です。私たちが神を従わせようとするならば、その期待は必ず裏切られます。けれど、私たちが神に聞き、みこころの内に歩むなら、私たちは必ず祝福を得るのです。イエス様は言われます。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」

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