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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170716 ヨハネ12:20-36 「一粒の種が死ねば」

ヨハネ12:20-36「一粒の種が死ねば」

 イエス様は言われます「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」一粒の麦が死ねば、豊かな実を結ぶ。当たり前といえば、当たり前の話です。いつまでも枯れない麦はありません。麦は枯れ、死んでいきます。けれど、その種は地に落ちて、やがて豊かな実を結ぶのです。もしも、いつまでもその穂にたくさんの種を抱えながら、地に落ちることのない麦であったらどうでしょう。麦としては見栄えの良い、立派な麦かもしれません。しかし、それではいつまでたっても1つのままでしかありません。地に落ちるからこそ次に繋がるのです。これは何も突飛な話ではありません。当たり前の自然の法則です。問題はイエス様が何を意図して、この麦の例えを語られたのかということです。
 恐らくではありますが、これを聞く人々には、イエス様の意図するところはわからなかったと思います。イエス様は続いて「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と語られますが、果たしてどの程度理解できたことか。私たちが全くの予備知識無しに、この所を読むとすれば、何かイエス様が武装蜂起して立ち上がるから、あなたたちも付いてきなさい。決して命を惜しんではいけませんよ。と、こんな風に読むのではないでしょうか。過ぎ越しの祭に来たギリシヤ人達はイエス様がユダヤ人たちにどのように期待されていたかを知っています。王の王として熱狂的に迎えられたことを知っています。ですから、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われて、続けて犠牲の上にこそ実がなると言われれば、ああ、この方は何ぞ血生臭いことを始めるに違いない。と、こう思ったのではなかったか。しかし、もちろん、イエス様が語られるのはそういうことではありません。
 27節から32節はヨハネの福音書におけるゲツセマネと呼ばれるほどに、ゲツセマネの祈りと重なるイエス様の言葉です。つまり、麦の例えは、ただ単に自然の法則を教えているわけではないということです。犠牲の上に新しい命がなる。イエス様は明らかに十字架を見据えて、ご自身の死を見据えて語っておられます。つまりご自身の死が多くの実を結ぶ。自分が死ぬことが、人々の救いとなり、栄光を受けることに他ならない、とこう言われるのです。
 その上で、イエス様は「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と語られます。ですから、これは武装蜂起して命を惜しまずに付いてきなさい。という意味ではありません。イエス様は人々の犠牲のために死なれるのです。死なれることで栄光を受けるのです。そして、このイエス様について来なさい。と言われるのです。
 この箇所は私たちの死に方を勧めているのではありません。むしろ生き方を勧めています。それは自分の思うままに生きてきた私たちに、そうではない、キリストに倣う生き方があるんだということを教えているのです。他人のために犠牲になることは愚かなことだ。と、世間は言うかもしれません。誰かのために自分が死んでしまっては元も子もない。と言われるかもしれません。それはある意味で正しいのかもしれません。けれども、そうでない生き方があります。誰かのために犠牲を負うことを厭わない生き方です。誰かのために自分を殺す生き方です。イエス様に倣う生き方です。そして、そういうキリスト者の愚かしい生き方に、世の人々は影響されていく。ここに実りがあるとイエス様は約束されているのです。

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