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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170723 ヨハネ12:36b-50 「世をはばかって」

ヨハネ12:36b-50「世をはばかって」

 つい先日、あれほどまでに熱狂的にイエス様を出迎えたのはユダヤ人である彼らでした。けれど、彼らはこのわずかな期間で、イエス様は救世主とは違うと結論づけました。これはいったいどういうことなのでしょうか。
 私たちは常日頃思うわけです。今ここにイエス様がいてくれたら、どんなに力強いことか、とです。そうすれば私たちがつべこべ言わなくても、イエス様さえ見てもらえれば伝わるはず。誰もがイエス様を救い主と信じずにはいられないはず。どれだけの試練に会っても、もしもイエス様が目に見えて、耳で聞こえて、肌に触れることができるとしたら、私たちは必ず乗り越えていけるはず。と、こう思うわけです。ところがです。実際には、誰よりもイエス様を見て、聞いて、体験したはずのユダヤ人が、イエス様を信じることができないでいるのです。これはいったいどうしたものでありましょうか。
 ヨハネはユダヤ人たちがイエス様を受け入れなかった理由を3つ上げています。1つはイザヤ53章1節の言葉から「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」です。これは、とても有名な受難のしもべの歌の1節です。人々の身代わりとなって苦難を受ける。これこそが救い主であると預言している箇所です。けれど、どうでしょう。当時、この預言ほど理解されない言葉は無かったのではないでしょうか。イエス様のエルサレム入城の場面で確認しましたように、彼らは熱狂的に王の王であるイエス様を歓迎しました。それは、イエス様がかつてのユダ・マカバイのように、民衆をまとめ上げて、独立の狼煙を上げてくれることを望んだからでした。誰もイザヤが語る受難のしもべなど望んでいなかったのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」と預言は続くのでした。なぜ、ユダヤ人は主イエスを信じられなかったのか。その理由は、彼らの願いが主のみこころとまったく異なっていたからです。どんなにイエス様と共にいようとも、どれだけイエス様の不思議なみわざを目の当たりにしようとも、聞く耳を持たなければ、決してイエス様を信じることはできません。彼らは神に聞こうとせず、神に一方的に求めます。無自覚の内に、神を従わせようとしています。しかしそれでは、いつまでたっても主を信じることはできないのです。
 もう1つのみ言葉はイザヤ6章10節「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」という言葉です。これは預言者として今まさに遣わされるイザヤに命じられた使命です。いったい、どういうことでしょうか。それはつまり、あらゆるものを失って、尚も残るそのところにこそ、救いがあるということです。自分の目、自分の耳、自分の心、自分勝手な理解や、考えや、悟りで立ち返っても、それは本当の救いには至らないのです。私たちは絶望を経験しなければならない。罪に対する心からの絶望。自我に対する心からの絶望です。なぜイエス様を信じることができなかったのか。2つ目の理由は、彼らが罪に対する本当の絶望を経験していなかったからです。
 さて、3つ目の理由は何でしょう。ヨハネは、実は指導者たちの中にはイエス様を信じる者が沢山いたと言っています。けれど、皆そのことを隠していたのです。なぜかと言うと、パリサイ人をはばかっていたからです。パリサイ人は民の指導者です。彼らに逆らっては、会堂から追放されてしまう。つまり、彼らは目の前の生活を守るために、自らの信じるものを隠したのです。私たちは今を失うことに恐れてはいけません。永遠を失うことこそ恐れるべきなのです。

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