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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170730 ヨハネ13:1-20 「主の模範に倣って」

ヨハネ13:1-20「主の模範に倣って」

 13章からはいよいよ受難の様子、栄光の様子が記されていきます。その幕開けはイエス様の洗足の出来事でした。当時は、外から家に入る時には足を洗うという習慣がありました。このとき足を洗うのはしもべの仕事です。それもユダヤ人ではなくて異邦人のしもべ。つまり、その家で最も卑しい者の仕事でした。ですから、イエス様が突然に手ぬぐいを腰にまとって、たらいに水を張って、自分たちの足を洗うということに、弟子たちはどれほど驚き、そして申し訳なく思ったことでしょうか。
 弟子のペテロとイエス様のやりとりを見ていると、どうも噛み合わない。ちぐはぐな印象を受けます。「決して私の足をお洗いにならないでください。」「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ペテロの言葉はイエス様に対する申し訳無さから出た言葉です。けれど、それに対するイエス様の言葉はどうでしょう。ちょっと言い過ぎではないでしょうか。そんなに大層なことなのでしょうか。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」ペテロの続く言葉は、調子に乗った言葉に聞こえますが、イエス様が洗わなければ何の関係もないと言われたので、慌ててもっと洗ってください。もっと密接に関わっていきたいです。という思いではなかったか。しかし、そんなペテロにイエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と言われます。手や頭は関係ないでしょ、とピシャリ。何やら、イエス様とペテロでは全く別の視点でこのことを見ているようです。
 2節に「夕食の間のことであった。」とあります。4節にも「夕食の席から立ち上がって」とあります。実は、これらのことをイエス様がなさったのは、過ぎ越しの食事の最中であったというのです。過ぎ越しの食事は、かつてイスラエルがエジプトの奴隷であった時に、神がモーセを用いてエジプトから脱出させた出来事を記念して、その出来事を思い起こすための食事です。10番目の災いは生贄の犠牲の血によって、イスラエルを過ぎ越されました。そして足を洗うという行為は、イエス様がしもべの姿を取られたことの象徴的な行為です。ですから、この過ぎ越しの食事の最中で、しもべとなって仕えられるイエス様の姿はまさしくイザヤ53章の苦難のしもべを思い起こさせるのです。私たちはこのしもべとなられたイエス様の身代わりの死、贖いの業によって、罪がきよめられるのです。ですから、この洗足は、他の誰でもないイエス様によってなされる必要がありましたし、このことを断ることはイエス様との関係を失うことと言われるのです。
 洗足の意味はただ単に仕え合うというだけでなく、きよめに与ることを意味しておりました。そして、それを踏まえて、このイエス様に倣って、あなたがたも互いに足を洗い合うべきと命じられています。ですから、ただ単に互いに仕え合いましょうというだけでは終わらない。私たちが仕え合うことは、キリストのきよめに結びつかなければならないのです。つまり、私の栄光となってはいけないのです。
 仕え合うのは私が評価されるためでしょうか。ありがたがられるためでしょうか。違います。主が私たちに仕えられたからです。主がしもべとなられて、十字架にかかり、蘇られたからです。私たちは主の恵みの応答として、互いに仕え合うべきなのです。ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」私たちは決して自分を誇れません。私たちが誇るのはただ主イエスのみです。ここに立って、私たちは仕え合うのです。

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