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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170813 ヨハネ13:21-30 「情け深いお方」

ヨハネ13:21-30 「情け深いお方」
 
 ユダの裏切りがイエス様によって指摘され、実際にユダがそれを行動に移す場面です。この箇所を読みますと、いつも思うのが、なぜ他の弟子たちはイエス様による裏切りの指摘を理解出来なかったのか。ということです。イエス様の行為を見れば、裏切り者が誰かは明らかだと思うのです。ところが、彼らに気付いている様子はありません。彼らはいったいどれだけ鈍いのでしょうか。
 気になって色々と調べましたら、ある説教者がこのようなことを言っていました。つまり、それは弟子たちにとって当たり前の光景であった。と言うのです。イエス様一行は車座になって食事を取っています。イエス様の右には、イエス様が愛されていた弟子ヨハネが座ります。では左には誰が座るのか。それがユダでした。ユダはいつもイエス様の側に置かれていました。ユダの役目が財布持ちということもあったかと思います。いつでもイエス様の御用に応えられるように、イエス様の側に置かれていた。それだけユダはイエス様に信頼されていたということです。ですから、食事の折、イエス様が身近に接するユダにパンを渡すという行為も、イエス様から言付けられてユダが食事の席を立つことも、さほど珍しい光景ではありませんでした。更に言うなら、イエス様が「パン切れを与える者」と言ってから、実際に与えるまでには、しばらくの間があったと考えられます。過ぎ越しの食事で苦菜を食べる際に、ハロセットと呼ばれる果物のピューレにつけるのですが、これは過ぎ越しの食事の中頃のことです。一方イエス様による弟子の裏切りの告知は洗足の直後のことですから、実際のパン切れを渡しのは、少し経ってからと言えるのです。
 何が言いたいかと言いますと、弟子たちはユダのことを、それほど気に留めていなかったということです。過ぎ越しの食事は作法通りに進み、彼らの気は緩みました。もはや、彼らは、イエス様の言ったことを気してはいませんでした。なぜなら、イエス様がユダを名指しにはしなかったからです。さすがにイエス様がユダを名指しにすれば、弟子たちも食事どころの騒ぎではなかったでしょう。けれど、イエス様は、遠回しに伝えるのみです。そして、案の定、弟子たちの気持ちは別に移っていきます。・・・ただ一人を除いてはです。イエス様がなぜ、裏切りを告知するのか。その割には、直接に名指しすることをしないのはなぜか。それは、イエス様がただ一人に向けてこのことを語っているからです。
 ユダを弟子たちの前で糾弾する意図はイエス様にはありません。けれど、彼をそのままにはしていられない。イエス様はユダを放ってはいられない。だから、イエス様は彼だけにわかるように伝えます。「私は全て知っているよ。」と、ユダにサインを送るのです。
 裏切りの告知があってから、実際にパンを渡されるまでの間、ユダはどのような思いだったでしょうか。不安、恐れ、やましさ、憤り、絶望。そんな思いがグルグルと駆け巡ったことでしょうか。思うに、罪が指摘されたユダは、ある意味チャンスだったのです。彼は行動を起こす前に、自らの罪を指摘されたのです。そして皆に知れることなく、悔い改める、やり直すチャンスを得たのです。耳を真っ赤にして、恥ずべき自分と直面して、しかし、それは神に立ち向かうために避けては通れないプロセスです。私たちは自らの罪に気付いて初めて、悔い改めることができる。神に立ち返ることができるのです。しかし、そんな私たちのジャマをするのが、こんな罪深い私を神は赦してくれるはずはない。という思いです。ユダは最後の最後で、イエス様を信じられなかった。もうだめだと決めつけたのです。
 私たちは見誤ってはいけません。イエス様は赦すために罪を暴くのです。そして赦すために命を捨てられるのです。私がどれだけ己の愚かさに嘆こうと、私がどれだけ自分の罪深さに絶望しようと、イエス様の赦しは揺らぎません。なぜならこの赦しは、私の義によって成るのではなくて、イエス様の流された血潮によって成るからです。たとえ自分を信じられなくても、イエス様の憐れみに疑う余地はありません。私たちは自分で決めつけるのではなくて、イエス様を頼り、悔い改めて神に立ち返ろうではありませんか。

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