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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170827 ヨハネ13:36-38 「つまずきを糧に」

ヨハネ13:36-38 「つまずきを糧に」

 イエス様は言いました。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 けれど、どうでしょう。イエス様の弟子であることは、イエス様の側にいることだけで、すでに明らかではなかったでしょうか。どこまでもイエス様について行く。それが彼らの弟子としての覚悟でした。「主よ。どこにおいでになるのですか。」ところがイエス様は「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われます。イエス様は共にはおられなくなる。だから彼ら自身がイエス様の弟子に相応しいか、世から問われるようになる。もちろんイエス様はこの後の十字架、そして復活、昇天を意識して言っています。けれど、弟子たちにはそれがわかりません。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエス様に認められようとするペテロの必死さの表れです。しかし、ご承知のとおり、彼はこの後数時間後にはつまずいてしまうわけです。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ペテロだけではない。弟子たちは皆、イエス様を置いて逃げさるのです。
 けれど、私は思うんですが、彼らがつまずくのは、これはもう仕方がないことではなかったかとです。彼らにとって、イエス様は全てだったのです。どんな困難もイエス様と共にあればこそ耐えてこれたのです。そのイエス様がいなくなれば、それは頼る大樹を失ってしまった鳥の如く、弟子たちはそこに留まり続けることなどできないのです。イエス様はもちろん、そんなことは百も承知でして、責めているわけでも、つまずいてはいけないと言っているのでもない。ついて来ることができない、その先で、あなたの覚悟が問われる。あなたの信仰が試される。その時、あなたはついて来なさい。とこう言っているわけです。
 信仰生活につまずきは避けられません。何のつまずきもなく、生涯を終える。理想を思い浮かべますが、実際はそういうわけにはいきません。私たちは時につまずきを覚え、もう信仰なんてどうでもいいと投げ出したくなることがあるのです。イエス様はそのような人の弱さを責めることはなさいません。そういうことはある、と言っている。しかし、そのままではいけない。倒れたならば、もう一度起き上がりなさい。私が先で待っているから、私のところまで歩き出しなさい。そう言っておられる。挫折を知ってなお立ち上がる信仰こそが求められているのです。
 慰めは、これは私たちの力によるのではないということです。ルカ22:32「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」もう一度立ち直る。このこともまた主のとりなしのゆえに可能なことです。イエス様はあらかじめとりなしていて下さる。私たちの弱さを全部承知で、今抱えている不安も、恐れも、怒りも、全て承知で、それを否定するのではなくて、待っていて下さる。そして尚も期待して下さっているのです。
 一足飛びには行かないかもしれません。落ち込んでいるときに元気を取り戻すことは時間がかかることかもしれません。しかし、主はとりなし、待ち続け、そして用いて下さるのです。ペテロが後に教会のリーダーとなっていくことに大いに慰められます。彼は言い訳のできない大きな失敗をするのです。けれど、だからこそ、イエス様は彼をリーダーと選ばれたのでありましょう。自信満々に己を誇るリーダーではありません。自分の弱さに打ちひしがれ、その弱さを覆う主の愛に気付かされたリーダーです。他人の愚かさに同情し、寄り添うことのできるリーダーにです。私たちは失敗を繰り返します。過ちを犯します。己の愚かさに腹が立ちます。しかし、それは無駄ではありません。挫折を通り越して、私たちはより強くなれる。より優しくなれる。主は弱さを知るその者をこそ用いて下さるのです。

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