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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/03/15 創世記48:1-22 「交差する祝福」

創世記48:1-22 「交差する祝福」

 ヤコブはもう床に座るのがやっと、目もほとんど見えず、余命幾ばくと無い様子でした。そんなヤコブが見舞いに来た二人の孫を祝福するのがこの場面です。この時、目の見えないヤコブを気遣って、ヨセフは二人の立ち位置を丁寧に揃えます。父の右手に兄マナセ、左手に弟エフライムです。これは当時、右手が一番、左手が二番という考えがあったからです。ところが不思議なことに、ヤコブは手を交差させて二人を祝福いたします。おそらくヤコブには二人の行く末。二つの部族の行く末が見えていたのでしょう。後の者が先になる。ヤコブは弟のエフライムの行く末が兄に勝ると預言しているのです。
 しかし単に兄と弟の順序を入れ替えたということなら、祝福を2度繰り返せば良いことです。わざわざ手を交差するような不格好な祝福をしなくても良いかと思います。ですからむしろ、この祝福が両手によって同時に一度でなされたということに注目したいのです。
 若い頃のヤコブほど祝福に執着した人はおりません。しかし、そのために彼ほど苦難を背負った人も多くはありません。彼がなぜ祝福に執着するのか。そこには父イサクの影響がありました。祝福は長子にのみ与えるというイサクのこだわりです。ヤコブが兄の祝福を騙し取ったとき、エサウはイサクに懇願します。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」しかしイサクはエサウを祝福いたしません。彼にとって祝福はあくまでも一つだけだからです。しかし本当に祝福は一つなのでしょうか。確かに長子としての祝福は一つでしょう。しかし、別の祝福があっても良いはずです。なぜ、イサクは実の息子に対する祝福を拒む必要があったのかと不思議です。そこには恐らく、神がイサクとは別に兄イシュマエルにも祝福を与えたことが関係しているのでしょう。イサクにとってイシュマエルの存在は不安で恐怖を感じる対象だったのでしょう。ですから、祝福は一つ。これがイサクのこだわりとなったのでしょう。
 ヤコブの交差する祝福は父イサクとは違う彼なりのこだわりではないかと思います。ヤコブは弟という身がどういう悔しさを抱えて生きていくかをよく知っていました。そのことがもたらす悲劇もよく知っておりました。そして恐らくは孫の弟のエフライムに自分と同じ気質を見出したのではないでしょうか。ですから、彼は二人を同時に祝福いたします。そうすることで、この兄弟間のわだかまりを起こさないようにと配慮したのではないでしょうか。
 ヤコブの祝福がスタンダードだとは思いません。しかし、親として子に接するとき、その一人ひとりの状況をよく判断して関わる知恵が必要だとヤコブから教えられるのです。祝福は長子に与えられるものだから。そういう拘りを先にして、接する者ではないかと思わされるのです。しかし私たちはそういう先入観を持って相手と関わりますと、もう実際には相手のことを見ていないのではないでしょうか。祝福とはかくあるべき。奉仕とは。クリスチャンとは。教会とは。しかし、その前に、私は果たして一人の人格として、その人を見ているだろうかと問われているのです。霊の目で見る。つまり祈りをもって見るということが大事です。お互いの関係に祝福の祈りが先立つかどうか。これこそは互いの関係を劇的に変化させるカギとなるのです。

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