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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170917 ヨハネ14:5-12「わたしが道であり」

ヨハネ14:5-12「わたしが道であり」

 行き先が定まっている旅と、そうでない旅では、道中の不安は全く違います。この一歩が、目的地に一歩近づく。行き先が決まってさえいれば、その一歩は決して無駄にはなりません。けれど、行き先がわからなければ、進むことも戻ることもできません。人生という旅は、闇の中を歩むようなものです。一歩先で何が起こるかわからない。私たちには光り輝く目的地が必要です。そのために、イエス様は私たちの行き着く先を用意されるのです。
 さて、目的地があるなら、当然そこに続く道があります。それが主イエスの道です。私たちはこの主イエスの道を歩いて天の住まいへと向かうわけですが、問題はこれが楽な道ではないことです。それは「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われた道。つまり天の住まいが用意される以前、救いが完成する以前には、イエス様が直々に「ついて来ることができません。」と言われたその道です。つまり十字架の道なのです。
 私たちは思います。イエス様と共に歩めば何の心配もない。不安もない。信仰の歩みは祝福に満ちた栄光の道だと。弟子たちもそう思いました。だから、何を置いても、イエス様とともにあることを彼らは願いました。けれども、その道は栄光の道ではあるけれど、決して平坦な道ではありません。それは十字架の道です。主イエスとともに歩むということは、私もまた十字架を歩まなければならないということです。だからこそ、救いの完成が必要だったのです。天の住まいが整えられなければならなかったのです。行き先がはっきりせずして、進むことは敵わないのがこの道だからです。
 ローマの南東の門から真っ直ぐに伸びる石畳の軍用道路でアッピア街道があります。このアッピア街道で、ペテロ晩年の有名な逸話が残っています。ペテロは晩年、ローマの伝道に尽力を注ぎました。けれど、時代は皇帝ネロの時代。ローマの大火の責任を押し付けられ、キリスト教の迫害は表面化していきます。次々と目の前で信者たちが捕らえられ、獅子の餌とされたり、串刺しにされたり、もう明日にも根絶やしにされるという有様。ペテロに付き添う弟子たちは、ペテロに今すぐローマを離れるように、反キリストの思惑通りにさせないようにと嘆願するのです。ペテロは弟子たちの意を酌み、涙ながらにローマを離れます。アッピア街道です。すると、その街道で輝かしい人と出会うのです。ペテロにはそれが主イエスであることがすぐにわかりました。彼はむせび泣きながら主に尋ねます。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ。どこに行かれるのですか。)すると主が答えます。「あなたが私の民を捨てるのなら、私はローマに行って、再び十字架にかかろう。」我に返った老使徒ペテロはアッピア街道を引き返します。ペテロはこのローマで死を迎えることとなるのです。
 イエス様が十字架にかかられるとき、イエス様を否認し、裏切ったペテロです。その彼が十字架の道を歩みます。何が彼をそのように変えたのでしょう。それは十字架の先を見据えたからです。復活の主とお会いして、信仰を貫き通すことの幸いを見出したのです。
 私たちもまた同じです。信仰の道は十字架の道。それは多くの人には理解されない狭き道です。イエス様はあざけりと、罵声の中、一歩一歩、十字架の道を歩まれました。私たちが信仰に生きる時、やはり私たちは多くの遠慮ないあざけりと罵声を耳にします。信仰の戦いを強いられるのです。
 来週の日曜日には小学校で運動会があります。信仰のゆえに休みなさいと言うこともできますが、これまで一緒に練習してきたクラスのみんなへの責任もあります。教会は夕方に礼拝を設けて彼らの信仰を応援したいと思います。
 子どもであろうと、信仰に生きることを選べば、そこに多かれ少なかれ戦いがあります。大人であれば更に多くの誘惑があることでしょう。そんなとき、私たちは世の常識という声に耳を傾けていても、何の助けもありません。私たちは主の御声に聞き、主の御すがたに倣うのです。十字架の道は決して失望に終わりません。その道は天の御国に続く道。天の住まいはすでに用意されているのです。

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