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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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171105 ヨハネ15:1-8 「まことのぶどうの木」

ヨハネ15:1-8 「まことのぶどうの木」

 イエス様は言います。実を結ぶ枝でも、より多くの実を結ぶために、刈り込みをなさると。間引くことで、残った枝はより多くの養分を得て、多くの実を結ぶことができるようになる。ぶどうの木の話としては、何の不思議もないイエス様の話です。けれど譬え話ですから、イエス様の言いたいことは別にあります。ではそれは何でしょう。ぶどうの木はイエス様のことだと冒頭で語られていました。父なる神が農夫だとも。では枝とは何でしょうか。実とは何でしょうか。
 5節に「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあります。しかもイエス様は「わたしの枝」と限定して言います。つまり「わたしのものとなった、あなたがた」、すなわち、主イエスを信じる者、キリスト者のことを指しているわけです。ですから2節にはキリスト者に対する二通りの取り扱いが記されています。キリスト者の内、実を結ばないものは父が取り除き、実を結ぶものは父がさらに刈り込む。と、こう二通りの取り扱いが記されるのです。
 私たちはここで実を結ぶということについて考えなければなりません。実を結ぶと聞きますと、私たちはたわわな収穫物を思います。たくさんのぶどうの実を実らせた枝を思い浮かべます。それは目に見える結果、成功です。けれど、イエス様はここで目に見える結果や成功について一切触れていません。目一杯実を結んだから良くて、少なかったから悪いとか、そういう話ではなくて、イエス様が問うておられるのは、「わたしにとどまる」というこの一点です。どれだけ枝ぶりが良かろうと、葉を茂らそうと、幹から離れれば枝は枯れるしかありません。大事なのは幹につながっていることです。同じ様に、私たちキリスト者はイエス様に留まることが大事です。もし、イエス様から離れれば、それは枯れずにはおられないのです。イエス様にとどまらない者がいます。イエス様の言葉に信頼しない者。この世の価値観を手放せず、成功という幻を追いかけて、主を見失ってしまう者がいます。しかしそれでは実を結べません。
 私たちは実を結ぶということが何なのかを考えなければなりません。それは世が称えるような成功とは違うのです。伝道した人数とか、教会での活躍度とか、そういうことではありません。それは御霊の実です。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。それはキリストに留まる者の内からにじみ出る生き方です。木につながっているとき、枝は養分を得て実を結びます。同様に、キリストに留まっているなら、私たちは御霊の力を得て自ずと生き方が変えられるのです。ピリピ3:7「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」とあります。以前は人の評価や賞賛を求め、他人を蹴落とし、人生の勝ち組になることに躍起になっていたかもしれません。今持っていない何かを手に入れることが幸せだと固く信じていたかもしれない。けれど、そうじゃない。それは永遠を知った私たちにとって、ほんのひと時の事です。もっと大事な問題がある。もっと見るべき視点がある。キリストに留まっていれば、それが自ずと分かるようになってくるのです。
 キリストに留まることの具体的な一例が、私が主イエスのことばに留まり、主イエスのことばが私に留まるということ。御言葉に対する信頼と服従です。私たちが世のことば以上に、主イエスのことばに聞くならば、信頼するならば、私たちは必ず実を結びます。必ず生き方が変わります。私たちは神の栄光を表すものとされるのです。

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