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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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171119 ヨハネ15:9-17「キリストの友となる」

ヨハネ15:9-17「キリストの友となる」

 「1年生になったら」という童謡には、友だち100人できるかな。とありますが、小学生にとって、友だちができるかどうかほど気掛かりなことはありません。いえ、小学生だけではありませんね。新しいコミュニティに入るどんな場面でも、私たちの気掛かりは、親しい友人ができるかどうかではないでしょうか。
 聖書は今日の箇所以外にも、友について幾つかの証言をしています。箴言には「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」とあります。友とは互いに研ぎあう存在だると言っています。では互いに研ぎあう存在とはいったいどのような存在でしょうか。
 「鉄は鉄によってとがれ」とあります。鉄によってではないですが、包丁を研ぐことを思い浮かべるのがわかりやすいかと思います。包丁は使っているうちに刃が効かなくなってきます。肉などを切ると、すぐに切れが悪くなってしまいます。ですから私たちは研ぎ石などを使って、刃を研いで、もう一度最初の切れ味を取り戻すわけです。この刃を研ぐということですが、一見よく切れるように刃を細く鋭くすることのように思います。けれど、そうではありません。刃を研ぐとはその逆で、刃に無数の見えない傷を付けることです。「人はその友によってとがれる」とあります。つまり、楽しさだけを共にすると言った当たり障りのない表面上の付き合いの関係を言うのではなくて、傷つけ合うほどに深く接し、しかしそれゆえに切れ味を取り戻す間柄のことを指して友と言っているのです。
 私たちには居心地の良い距離感と言うものがあります。近すぎる距離感は、鬱陶しいし、わずらわしい。離れすぎても、関係を作れない。少しくらい離れているくらいが丁度よい。けれど、聖書は言うのです。そこからさらに一歩踏み込んだところに本物の友としての関係があるのだとです。もちろん、それは傷が付く距離です。時に面倒です。時に煩わしいです。けれど、だからこそ寄り添い、影響し合えるのです。自らも傷を負う覚悟がなければ、決して寄り添うこと。友となることはできません。そしてその究極は、相手のために命を投げ出すことです。
 私たちが順調な時、私たちに好意を寄せる人はいるでしょう。群がる人はいるでしょう。けれど、人の愛は変わるのです。冷えていくのです。消えゆくのです。いざ、その愛を問われる段になって、尻込みしてしまうのです。当然です。誰だって傷付きたくないからです。ではいったい、私たちの友はどこにいるのでしょうか。
 それが他でもないキリストだと聖書は言うのです。聖書はあなたのために命を投げ出された方がおられるということを語っています。ヨハネ15:13「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
 神の御子イエス・キリストは、私たちが滅びることを捨て置けず、ご自身の命を投げ出されたのでありました。私たちのために何の罪もなかったお方が死なれた。身代わりとなってくださった。このお方は口だけではなくて、いざと言う時に逃げ出すこともせず、私たちのために傷付いてくださった。ですからこのお方こそ、イエス様こそ私たちの真の友であると、こう言われるのです。
 さて、イエス様は、イエス様が友となられた、そのことを私たちが知ることで満足いたしません。イエス様は続けます。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」わたしがあなたがたに命じることとは何でしょう。17節「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」「友」という言葉と「愛する」と訳される言葉は同じ語源をもつ言葉です。あなたがたが互いに愛し合うとは、つまりは、あなたがたが互いに友となる。あなたが傷付くことを厭わず、その隣りにいる一人に寄り添っていくならば、あなたがたはわたしの友だと言うのです。私たちの友となられたお方は、私たちもまた誰かの友となることを願っておられるのです。

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