FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

171203 マタイ1:18‐25 「インマヌエル・ヨセフの決断」

マタイ1:18-25 「インマヌエル・ヨセフの決断」

 マリヤとヨセフはいいなづけ、婚約者同士です。御使いがマリヤのことを「あなたの妻マリヤ」と呼んでいるように、それは周囲からも夫婦として認められる関係で、法的にはすでに結婚関係にあるものと見られました。当時の婚約期間はおよそ一年と言いますが、それぞれの家で過ごして身を固くしまして、そして晴れて共に暮らすのです。つまりこの一年は、相手に対して、そして世間に対して自分が純潔であることを証明する期間であったわけです。そして、その婚約相手のマリヤの妊娠を知ったヨセフの姿がここにあるのです。
 これは現代の私たちが考える以上に大事件です。婚約中の相手が妊娠をする。自分には全く身に覚えが無いとすれば、それは相手の裏切りを意味するからです。姦淫の罪です。それは律法に照らすと死罪に価しました。さすがにこの時代には、石打ちの刑を行なうことはほとんどなかったようですが、それでも自分を裏切った女性に対しては、離縁状を書いて、公にして、結納金を返してもらうことは正当な権利でした。しかしヨセフはそうしません。彼は正しい人でした。「正しい」とは、律法に忠実に守っていたという意味です。しかし、裏切られても尚、彼はマリヤを愛しておりました。正しい人ヨセフが、悩んだ末に出した結論は、正当な権利を放棄して、マリヤを内密に去らせるということでした。
 そんなヨセフの下に、主の使いが夢の中に現れたのです。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」ここに至って、ヨセフは初めて、マリヤ懐妊の理由を知らされたのです。マリヤは自分を裏切ったのではなかった。その子は聖霊によって宿った。彼は御使いの登場に驚くよりも前に、ほっとしたことでしょう。しかし安堵の気持ちに浸る余裕は、彼にはありません。御使いは続けて「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」と言ったのです。
 マリヤが自分を裏切ったのではないと知って、心から安堵したヨセフです。良かった。これでマリヤを憎まなくても済む。けれど、だから身重となるマリヤと結婚するかと言いますと、それはまた別の問題です。マリヤを妻として迎えるということは、お腹の子の父となることです。たとえ、それが不義の子ではなかったとしても、まだ一緒にもなっていない内から父親となることは、彼にとってどれほどの試みでありましょう。しかし、ヨセフは決断します。「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた」のです。
 ヨセフはどうして勇気ある決断をすることができたのでしょうか。それは、この状況の中にも「主が共におられる」ということを、確信したからです。御使いのことばを通して、インマヌエルなる主を知ったからです。将来に広がる様々な不安。周囲の目。自分自身の心境。不安要素はいっぱいある。先がどうなるかなんて全くわからない。本当にこの子の父親になれるのか、心配で心配で仕方ありません。しかし、その悩む只中にあっても、まさにそこに主は共におられるのだと言う確信。これがヨセフの心を定め、動かしたのでした。
 私たちの人生に降りかかる数多くの試練。私たちはまずどうやってこの試練から逃れようかと考えるのではないでしょうか。しかし聖書は、全部丸ごと受け止めなさいと言うのです。試練には意味がある。時がある。そして与えられた方のご計画がある。私たちはその試練のうちにも、主が共におられると知れるからこそ、「大丈夫」と受け止めることができるのです。先が見えない真っ暗な道も、手をつないでくれる人がいれば心強いと言うものです。その手が、私の今も昔もこれからも、全てをご存じなお方なら尚のことです。私たちの歩む道は一人きりの道ではありません。主が共におられるのです。どのような試練の中でも、主が共におられるなら、そこが私たちの平和です。

コメント

非公開コメント