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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180107 ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

 あるときイエス様は言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」またイエス様は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)とも言っています。注意したいのは、私たちが弟子となったから、多くの実を結ぶのではありません。多くの実を結ぶその生き方がイエスの弟子と呼ばれるのです。確かに、あの人の生き方はイエス様のようだ。と、その人の生き方に見いだされる多くの実が、人々をして、イエス様の弟子と認めさせるのです。
 では、多くの実とはいったい何かという話です。このぶどうの木の例え話は、この後、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と続き、一連のまとめとして17節で「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られます。イエス様のことばに留まることとは、イエス様の愛の中に留まるということであり、それは具体的には、わたしたちが互いに愛し合うことだと言うのです。今日の箇所でパウロが御霊の実として数えていることも同じです。御霊の実とは何か抽象的な何かではなくて、具体的に私たちの間に見られる喜びであり、平安であり、寛容であると言うのです。そして、私たちの互いに愛し合うその様子を見まして、世の人々は私たちの中にキリストを見る。私たちをキリストの弟子と認めるのです。逆に言いますと、もし、私たちの間で愛が見られず、憎み合ったり、批難し合ったり、陰口ばかりであれば、およそキリストの名に相応しく無い私たちであれば、それはキリストの名を汚すことであり、人々は決して私たちをキリストの弟子とは認めないということです。
 このように聞きますと、これは何と重たい看板でしょうか。互いに愛し合うとは、聞こえの良い教えですが、実際にそれを実行するとなりますと、これが大変難しいのです。キリストの贖いのゆえに義とされた私たちですが、私たちは今もなお、私たちの内にはびこる肉の思いを捨て去ることができません。制御できないおぞましい感情が、内側から沸々と湧き出ることすらあります。パウロは御霊の実を数えます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。しかし私たちの現実は、中々そうではいられないのです。では、それは、絵に書いた餅なのでしょうか。無駄なこと。無意味なこと。私たちキリスト者は、高望みしている夢想家なのでしょうか。
 今年、私たちは、この御霊の実について学んでいくわけですが、まずその最初に覚えておかなくてはならないことは、これは御霊によってでなければ、決して結ぶことのできない実であるということです。私たちの努力では限界がある。無理がある。一生懸命、愛そうと思う。頑張って喜んでいる。無理やり平安だと思い込もうとする。こういうことでは、決して得ることはできない実なのです。私たちはついついそのようにしがちです。特に真面目な人ほどそうです。一生懸命、御霊の実を結ぼうとします。けれど、そうじゃない。それは肉の思いで、実を結ぼうとしているのと同じです。そうではなくて、御霊によって結ばせていただくのです。
 イエス様は「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言われました。ですから、絶えずイエス様のことばに聞くことが大事です。イエス様のお姿に倣うことが大事です。「愛さなければ」「喜ばなければ」ではなくて、イエス様ならどうされるか。イエス様はどう言われたか、と聞くことが大事です。なぜなら、御霊の実を追い求めれば、それはイエス様にこそ行き着くからからです。
 具体的に想像したいのです。私たちの交わりが真に愛に溢れ、喜びに満たされるところをです。心から互いを心配し、尊敬し、柔和で自制に満ちた交わり。人々はそこにキリストを見るのです。このような交わりを私たちは夢物語で終わらせてはいけません。私たち一人ひとりが、そのようにイエス様の御心を求め、御霊の語りかけに身を委ねる時、確かに私たちに愛が生まれ、喜びが溢れ、平安に満たされるのです。

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