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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180114 出エジプト20:16 「偽りの証言をしてはならない」

出エジプト20:16 「偽りの証言をしてはならない」

 偽りを捨てるということは、口で言うほど易しくはありません。なぜ、偽りの証言をするのか。それは多くの場合、自己保身のためだからです。子どもたちを見ているとよくわかります。彼らは叱られたくない一心に、平気で嘘をつきます。どれだけ状況が揃っていても、認めません。僕じゃない。その嘘が余計に怒りを買うことに頭が回りません。彼らの嘘は非常に反射的です。恐らく何も考えずに、口から出ているのです。
 親として、そういう姿を見ると本当に悲しくなるわけです。正直に叱られているほうがどれほどマシか。と思います。子どもの言うことに何を大げさなと思われるでしょうか。けれど、その小さな嘘の本質は罪です。自分の身可愛さに、他人に責任をなすりつけようとする。他人を罪人に陥れようとする。子どもだからと笑って過ごせることではありません。世の中には叱らない親も増えてきています。けれど、私はきちんと叱らなければならないと思っています。それは、子憎しということではありません。親として子に期待をしているからです。大切な存在だと認めているからです。だから、偽りの人生を歩んでほしくない。人と人との関係を嘘で塗り固めてほしくない。相手を信頼する人生を歩んでほしいと思うからです。親は子に正しい道を教える責任があるのです。
 そして、その思いはまさに、父なる神が私たちに対して抱いている思いなのではないでしょうか。父なる神の前に、私たちは言い訳ばかりしている子どもと同じではないでしょうか。私たちの必死な言い逃れを、天の父なるお方は悲しんではおられないでしょうか。
 嘘は所詮偽物ですから、辻褄を合わせるためには、更なる嘘を必要とします。中には、嘘も時には必要だと言われるでしょうか。相手の為を想っての嘘は嘘じゃないのでしょうか。私が学生の頃「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画がありました。それはアウシュビッツ収容所に入れられた親子の話で、父のグイドは息子のジョズエに、悲惨な現実の中でも希望を失わないために、これは大掛かりなゲームだと息子に嘘をつくのです。子を想う親心を描いた名作。けれど、私の評価は違います。現実を見せないという親の嘘は、本当に子にとって幸せなのか。それはまやかしではないのか、と思うのです。映画の最後、父グイドはドイツ兵に連れられて行きます。それを見る息子を心配かけまいと、大げさな行進で笑顔に画面から消えていきます。そして銃声が聞こえる。ジェイドは父の死を知らぬまま、翌日、戦争が終結し、彼は解放軍の戦車に乗って笑顔に収容所を出るのです。映画はそこで終わります。しかし、思うのです。この子の現実はそこから始まるのではないでしょうか。たとえば、ゲームだと笑って過ごしたその裏で、沢山の仲間たちが死んでいったことだとか、父が自分のための嘘を突き通すために、周りの人を巻き込んで多くの悲惨があったことだとか。彼はそれをどう受け止めるでしょう。その傍らにもはや父はいないのです・・・。私は、子に向かって夢の中で生きよと言うよりは、むしろ、現実を教え、そこに立ち向かう手立てを教えるのが親の責任ではないかと思うのです。
 聖書にはしばしば、偽預言者が出てきます。彼らは何を語るのか。それは、人々の望む言葉を語ったのです。人々の耳に心地よい偽りの言葉。まやかしの言葉。預言者エレミヤが涙を流して民の滅びを預言し、その悔い改めを迫る隣で、偽予言者たちは「平安だ。平安だ。」と安易な慰めを口にしたのです。その結果が何をもたらすか、考えもなしにです。
 十戒は、偽りの証言をしてはならない。とあります。証言という言葉からわかるように、これは元々、裁判での証言を指している言葉です。今でも裁判所で証言をするとき、証言者は偽らないことを宣誓しなくてはいけません。もし偽れば、偽証罪に問われます。それほど念を入れる。なぜなら、その証言如何によって、一人の人の人生が左右されるからです。私たちの軽はずみな発言が、取り返しのつかない大きな結果を生み出すからです。だからこそ、私たちは偽りで誤魔化すわけにはいきません。
 偽りの証言をしてはいけないとは、真実を語らなければならないという意味でもあります。たとえ、周りの全ての者が平安だと言ったとしても、神の真実が別にあるのなら、私たちは語らなければなりません。福音は人の罪をあばきます。しかしそれゆえに神の救いに導くのです。

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