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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180204 ルカ6:27-38 「憐れみ深い愛」

ルカ6:27-38 「憐れみ深い愛」

 御霊の実の最初に数えられるのは「愛」です。では愛とは何でしょうか。私たちの交わりの内に愛の実を結びなさい。というとき、それはいったいどういう意味なのでしょうか。いつの時代の人々にとっても、求めてやまないのが愛でありますけれども、求めてやまない愛を結ぶなんてことなんて果たしてできるものでしょうか。
 第1コリント13章は愛の書として有名で、よく結婚式の時に読まれたり致します。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません・・・」愛というのは、もう、御霊の実の全ての要素の根源と言ってもよいかと思います。それほど愛というのは大切であり、素晴らしいもの。
 しかし、思うのです。愛とは本当に寛容なのでしょうか。ねたまないのでしょうか。いやいや、愛憎という言葉があるように、愛するがゆえに妬みが生まれるし、憎しみも生まれる。自慢もしたくなるのではないでしょうか。聖書が言う愛はとても美しいんですが、それは現実離れした綺麗ごとのようではないでしょうか。結婚式で第1コリント13章が読まれて、これから二人の間に愛を育んでいきましょう。と語られます。愛は寛容とありますから、相手の過ちを赦しましょう。愛はねたみませんから、相手を束縛してはいけません。愛は苛立たないはずですから、常に穏やかな心でいなくてはいけません。・・・いや正直言って、それは無理な話です。もしも、第1コリント13章がそのような意味で結婚式で語られるとすれば、それはなんと残酷な話ではないでしょうか。
 百歩譲って、そのような愛があるとしましょう。けれど、どうでしょう。イエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい。」と言われるのです。これは何と現実離れした要求ではないでしょうか。そんなことできるものかと思ってしまいます。人から敵意を向けられるというのは、本当に辛いことなのです。憎しみ返すとまでは言わなくとも、せめて関わりたくない。と思うのが私たちです。奪い取られそうになれば、必死になって奪われまいとするのは当たり前な話です。自分を愛してくれる者を愛するのが、私たちの精一杯の現実です。ですから私たちはイエス様の言葉に戸惑うのです。
 しかしです。実は、このことは私たちの努力によってどうにかなる類の話ではないのです。私たちが必死になって愛そう。見返りを求めないで与えようと思いましても、それは無理なのです。愛することはそんなに簡単なことではありません。愛とは御霊の実なのです。つまり、御霊の働き無くして、私たちに真の愛は生まれないのです。
 では御霊はどのように働くのでしょうか。前回確認しましたように、御霊は私たちをキリストへと導きます。つまり、私たちが御霊によってキリストの愛に触れる時、私たちは愛する者とされるのです。言い換えるなら、キリストの愛を知らずして、愛する者とはなれないのです。
 以前のこと。私にはどうにも愛せない人がおりました。その人の発言に傷付きました。なんでこの人はこうなのか。イライラして、腹が立って、どうにも受け入れることができませんでした。ところがある時、彼のことで苛立っている最中に、なぜか十字架のイエス様の祈りが心に浮かんできたのです。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分では何をしているのかわからないのです。」ご自身を十字架へと追いやった敵のために、とりなしの祈りをするイエス様。このイエス様の祈りの前に、自分は何と愚かで情けない者なのかと迫られたのです。私自身が取るに足りない者であり、ただただ憐れみによって赦された者に過ぎないのに、自己中心な正義をもって私は他人を裁いている。いったい何様なのかと思わされたのです。そして、そのことを恥じ、心から悔いた時、あれほど嫌っていた彼に対して何の苛立ちも感じなくなったのです。
 愛することは、愛されていることから始まるのです。敵のためにすら命を捨てられたイエス様の愛に触れられて、私たちはようやく愛を知るのです。そして赦された者として赦し、愛された者として愛するように変えられるのです。

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