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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180311 ピリピ4:4 「喜びの秘訣」

ピリピ4:4 「喜びの秘訣」

 御霊の実の2番目は「喜び」です。御霊が働かれる時、喜びがある。これが聖書の記すところです。教会にいる一人ひとりに喜びがあるとき、教会は世に対して光となります。一方で、教会に喜びがなければ、教会は世に対する言葉を失うのです。
 けれど、喜ぶということは言うほど容易いことではありません。わかっていても喜べないという時は誰しもあるのです。忙しすぎて余裕がない。自分のもっとも気にしている点を指摘されて凹んだ。精一杯に取り組んできた案件が失敗に終わって落ち込んだ。その失敗を人前で指摘されて笑い者にされて恥ずかしかった。クラスの誰もが味方してくれない中で、必死に作り笑顔をした・・・。いつも喜んでいなさいとは、もちろん、そうできれば良いに決まっていますが、私たちの日常を考えれば如何に非現実的かと思わざるを得ません。
 ではパウロはどのような意味で勧めているのでしょうか。たとえば、喜べない状況においても、無理にでも喜ぶようにすれば、だんだんそれを喜べるようになる。いわゆるポジティブ・シンキングの勧めなのでしょうか。そうではないと思います。なぜなら、喜びなさいと命じるパウロは、この時獄中におり、普通に考えれば喜べるような状況にはないからです。けれど、彼の手紙を読みますと、彼はそこかしこに喜びを語っています。それは決して無理している様ではありません。心から喜んでいる。つまりパウロが「いつも喜んでいなさい。」と言う時、それはたとえ困難な状況の中でも「いつも喜んでいられる」という実体験をもとに語っているのです。
 なぜパウロは困難な状況の中でも、喜びを見いだせるのでしょうか。4:1ではパウロはピリピ教会の人々を「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」と呼びます。つまり喜びの原因はあなたたちだと言っています。この手紙の至る所で同じように言います。実はピリピ書に留まらず、新約聖書で「喜び」という言葉が使われるとき、ほとんどは自分のことではなくて、相手を喜ぶという意味で使われています。ここにどんな状況の中でも喜ぶことの秘訣があります。つまり、喜びというのは自分の状況を見て無理して笑顔を作ることではなくて、誰かとの関りの中で湧いてくるものだということです。
 たとえば皆さんがオリンピックで金メダルを獲ったとします。苦労して苦労してようやくつかんだ金メダル。けれど、誰もそのことに関心を寄せてくれない。喜んでくれないとしたらどうでしょう。空しくはないでしょうか。逆に、たった一人でも自分の頑張りを労ってくれて、喜んでくれたなら、その存在はどれほどの喜びでありましょうか。喜びというのは喜ばれるという体験を通して実感するものです。そして誰かを喜べるという現実は私たちに生きる希望を与えてくれます。喜びは分かち合うことによって生まれるのです。
 自分ばかり見ていれば、ふさぎ込むことも多いでしょう。行き詰った現状に不安ばかりが沸いてくるでしょう。けれど、パウロがここで言っているのは、自分の置かれたあらゆる状況を無理してでも喜べとではなくて、どのような状況でも、喜び喜ばれる関係が持てる。少なくとも、私はあなたがたを喜んでいる。だからあなたがたも私を見て喜んでくださいとではないでしょうか。孤独の中にあって、自分を知り、理解し、助けてくれる存在は喜び以外の何者でもありません。どのような時にも私に向けられている喜びの知らせを聞くならば、それはこの上もない喜びではないでしょうか。
 しかしそれでも喜べない時があるかもしれません。その一人がいない孤独を感じるときです。本当に苦しい時は自分を喜んでいる人などいない。と考えがちです。だからこそ、パウロは「主にあって」と言うのです。他の誰でもない。私たちは、私たちを喜んでおられる主を知っています。自分を喜べなくても、仲間を喜ぶことができる。その仲間すら喜べないとしても、主イエスを喜ぶことはできる。それは私に先立って、私を喜んでくれているイエスさまがおられるからです。
 私たちは今喜んでいますでしょうか。私たちの存在を喜んでくれる仲間がいます。私たちを生かすために喜んでその身を差し出されたお方がいます。私たちが今ここにあることがたくさんの喜びを産んでいるのです。私たちはこれを喜ぶのです。だから喜べるのです。

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