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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180318 ヨハネ17:1-5 「大祭司の祈り」

ヨハネ17:1-5 「大祭司の祈り」

 この祈りは古くから大祭司の祈りと呼ばれています。祭司とは、民をとりなし、民の声を神に届けるのが努めです。人々の悔い改めの心を神に届けるのです。その祭司の中でも大祭司は特別な存在で、それは単に祭司たちのまとめ役ということではなくて、唯一人、神の臨在のもとに訪れる資格を持つ存在だと言うことです。ヘブル書を読みますと、イエス様こそが真の大祭司であることが記されていますが、この祈りは、まさにイエス様が真の大祭司であることを表明するような祈りです。天の神様の前に、自分自身をとりなし、残される弟子たちをとりなし、これから弟子となるであろう者たちをとりなす。それがこのイエス様による大祭司の祈りです。
 自分自身をとりなす。というのは、なんだか変な感じがしますが、祭司たちがまず自らの罪のための生贄を捧げることは律法で決められていたことでした。義なる神の前には祭司であろうと罪人に過ぎません。何の準備もなしに神の前に出ることは死です。ですから、祭司たちはまず自分のために生贄を捧げる。イエス様はその手順に沿われて、まず自分自身のために祈ります。ところがイエス様が祈るのは、命乞いでも、弁明でも、改心でもありません。世界が始まる前に一緒に持っていた栄光を現してください。というものでした。
 栄光を現すとはどういうことでしょう。4節を見ると、イエス様が神様のわざを成し遂げることだとあります。では「わざ」とは何か。2節にはイエス様が永遠のいのちを与えることだと。そして永遠のいのちはと言いますと3節、神とイエスを知ることだとあるのです。
 ここで言う「知る」とは単に知識を得るということではなくて、体験としてわかるという意味です。そのものに触れて、感じ取っていく。神のわざ、ご計画であるところは、私たちに永遠のいのちを与えること。それは何か、不老不死のような死なない何かではなくて、神様とイエス様に直接に触れ合い、理解し合う、そういう密な関係の中に入れられるということです。そして、それこそが、三位一体の神がこの世界の始まる前に持たれていたご計画だと。それを成し遂げることが、神の栄光であり、子の栄光なんだとイエス様はこの祈りを通じて教えてくださっているのです。そのために十字架がある。復活がある。イエス様はこのとりなしの祈りの冒頭で、これから起こる出来事を持って栄光が現れるようにと祈られるのです。
 ゲツセマネの祈りとよく対比される大祭司の祈りですが、ゲツセマネの祈りはこれから起こる苦難の大きさ、それはただ一人罪なきお方が、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈らざるを得なかった全人類の罪の途方もない大きさを意味しているわけですが、そのような中でもイエス様は祈りを続けられました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」この「みこころ」というのが、今日の大祭司の祈りで言うところの「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」であります。
 私たちはこの2つの祈りから、これから起こるイエス様の受難。十字架の出来事が、神のひとり子が投げ出したくなるような途方もない苦難であるとともに、父なる神もイエス様も双方に渇望してやまない神のご栄光そのものであったことを見るのです。つまり、イエス様は仕方なくこの道を行かれたのではありません。イエス様は自ら、栄光のためにこの道を歩まれるのです。
 どちらもイエス様の本心です。目に見える現象には、もう一つ別の視点があるということです。私たちの人生においても、みこころなら取り去ってくださいと願う杯があります。しかし同時に、その杯を用いられる神のご計画があります。その時何が正解で何が導きか私たちにはわかりません。わかっているのは、この瞬間、この生涯を用いて神の栄光がなるという事実です。ここを見失わなければ、私たちはどのような苦難にもどこかで大丈夫と心落ち着かせることができるのです。

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