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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180429 ヨハネ18:1-11「堂々と名乗りを挙げて」

ヨハネ18:1-11「堂々と名乗りを挙げて」

 イエス様が祈る中、眠りこけてしまう弟子たち。それも3度も。イエス様が弟子のペテロにかけられたセリフはイエス様の苦闘と孤独を深く思わされます。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」有名なゲツセマネでのイエス様の祈りの場面です。しかし、ヨハネはこのことを記しません。このゲツセマネの出来事で彼は、血の汗を流されるイエス様の渾身の祈りも、口づけを持ってイエス様を裏切るユダの詳細も記しません。では何を記すのか。ヨハネはイエス様が自ら名乗りを挙げて捕らえられる様子を記します。自ら十字架に向かわれるそのお姿を記します。絶体絶命に見える状況で、悪に媚びることなく、状況に流されることなく、堂々と名乗りを挙げるイエス様。それこそがヨハネが振り返っては思い起こすイエス様その人でありました。
 向けられる敵意に対して「わたしがそれだ」と、堂々と名乗りを挙げるイエス様がおられます。その結果、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。「わたしがそれだ」と告白されるギリシャ語「エゴー・エイミ」は神の聖なる御名としてこれまでも使われてきた言葉です。神様がモーセに「わたしはある」とご自身の名を明らかにされた、まさにその呼び名です。すると、人々はその御名の栄光にひるんだのです。イエス様はもう一度問われます。「だれを捜しているのか」「ナザレ人イエスを」するとイエス様は言われます。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
 他の福音書を見ると、イエス様の逮捕はユダ主導の元で行われて来ました。しかし、ヨハネは、それはむしろイエス様の主権によってなされたと言うのです。イエス様は進んで捕らえられたのだとです。これらのことは、ユダの裏切りによって実現したこと。しかし、ユダや祭司長やローマの兵隊によって無理やりに引き起こされた事件ではありません。これらは全て神の尊いご計画でありました。罪のない方が、人類の罪の贖いとなって死ぬ。神の御子が、神の怒りを一身に背負って死んで行く。これこそが神のご計画。聖書の語るところです。それゆえ、十字架は勝利の道。復活の栄光へと繋がっているのです。
 ヨハネは振り返って、このイエス様を後世に伝えます。それは彼自身の生きる指針がこのイエス様の姿にあるからです。ヨハネの後の半生は決して平坦ではありません。信仰のゆえに人々の敵意を浴び、辛酸を舐めることがありました。迫害の中で、命を落とす者たちを見ながら、何もしてやることのできない悔しさと無力さを経験しました。しかしヨハネは思うようにならない生涯で、それでも尚、キリストを名乗る幸いを見るのです。
 このことはもちろんヨハネだけのことではありません。パウロはローマの獄中にあって言います。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)これは全てのキリスト者に通ずる生き方であろうと思います。私たちの生き方であります。イエス様はゲツセマネで、闇に紛れて、逃げ出すことも出来たことでした。口を閉ざして、顔を隠して、誤魔化し続けることもできました。けれど、そうはされませんでした。イエス様は名乗りを挙げた。なぜなら、ご自身が捕らえられる先、十字架の先に、復活があるからです。私たちがキリストの名に生きる先に、よみがえりの希望があります。ですから私たちはどんな場合にもキリストを恥じることなく、大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられたいのです。

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