FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

180506 ヨハネ14:1 「主の平安に生きる」

ヨハネ14:1 「主の平安に生きる」

 御霊の実の3つ目は「平安」です。「平安」という言葉を辞書で引きますと、「無事で穏やかなこと」ですとか、「やすらかで変わったことのないこと」とありました。穏やかな日常。やすらかな心。私たちは毎日の生活を心穏やかに過ごすことができればと思います。けれど、そう思うようにいかないのが現実ではないでしょうか。私たちはいつも不安ばかり。心が騒いで仕方がないのです。
 私たちは自分の存在にいつも不安を感じています。自分自身は平気で嘘をつくし、大して人の役に立つことをしているわけでもない。他人を見れば劣っているところばかりが見えて嫌になります。いえ、他の誰かがというよりも前に、自分自身が自分の価値を見いだせないのです。挙げ句、道ですれ違った人の視線が自分を責めているようで不安になったりします。こんな自分なんていてもいなくても変わらない。日常の中のふとした瞬間に、そんな思いが湧いてきて悲しくなります。
 私たちの抱える不安は尽きることがありません。平安があるようにと祈りますが、これは何か、目の前の問題が解決されて、平安という何かが得られるという話ではないのです。目の前の問題が解決しても、また別の問題が現れるだけです。人間関係の問題、将来についての問題。上手く行かない日常の中で、私たちの心は騒ぎっぱなしです。ですから私たちは、問題を解決しないと平安が得られないのではなくて、たとえ問題の渦中にあっても平安を見い出せるようでなければならないのです。
 御言葉は何と言っているでしょうか。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)神を信じ、またわたしを信じなさい。と言っています。これが大事だと言うのです。私たちは自分の中に、愚かで、醜い部分があることを知っています。思い通りにならない、卑屈で、強情な自分を嫌という程見ています。自分でもしたくない、自分だけはするはずがないと思うそのことをしてしまう弱さを、自分の内に見るのです。私は私を信じることができません。いえ自分のことだからこそ信じることができないのです。けれど御言葉は、自分を信じろと言ってはおりません。そうじゃない。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言っています。たとえ、私たちが自分にどれだけ自信が持てなくとも、私たちのとりまく問題が山積していようとも、神を信じ、主イエスを信じることこそが大事だと言っています。私のために命を捨てられた主イエスの愛を信ぜよと言っているのです。最も大切なひとり子の命を犠牲とされた神の愛を信ぜよと言っているのです。そうすることが、私たちの心を穏やかなものとする秘訣です。
 ヤコブ 1:6 には「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」とあります。波を見れば恐れるのは当たり前なのです。不安になるのです。そこがどこであれ、主が共におられるというこの事実に目を留めるべきなのです。主が私たちを守り支えてくださることに信頼すべきなのです。詩篇37:24にこうあります。「その人は転んでも倒れ伏すことはない。【主】がその人の腕を支えておられるからだ。」転ぶことは悪いことではありません。転んで学ぶこともあります。主が支えてくださることを知れるのは、転んだときなのです。問題を抱え、様々な心配事に不安を覚えます。自らの弱さを情けなく思います。けれど、だからこそ、私の弱さのうちに現れる主と出会うのです。
 パウロは言います。「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」このように告白できる者は何と幸いなことでしょうか。一人で問題に立ち向かわなければならない者は、やがては壁にぶつかります。なぜなら問題を解決しなければ平安がないと思うからです。けれど、そうではありません。平安は主がともにおられることです。どのような問題も私たちと主を引き離すことはできません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)いつも主は共におられる。だからこそ、私たちはどのような時にも平安を見出せるのです。

コメント

非公開コメント