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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180513 ヨハネ18:12-27 「異例の尋問」

ヨハネ18:12-27 「異例の尋問」

 ゲツセマネの園での大捕物の後、イエス様はローマ兵に連れられて、アンナスの屋敷に連れて行かれました。このアンナスという人は、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだった人物です。実は当時大祭司以上の権力を持っていたのがアンナスでした。
 しかし、アンナス直々の尋問も、何の成果も出ませんでした。イエス様は慌てる様子もありません。自分には何のやましいこともない。どうぞ調べるなら調べるが良い。時の権力者を前にして、一つも動じることのないイエス様です。すると、下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエス様を打ちました。随分と横暴な仕打ちです。けれどイエス様はやはり冷静に応じられます。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」暴力を前にしても、一向にひるむことのないイエス様でありました。
 今日の箇所は、このイエス様への尋問を挟み込む形で、弟子のペテロの姿が記されます。この場面、共観福音書ではペテロが鶏の声を聞いてイエス様の先の言葉を思い出し、自らの愚かさに泣き崩れる場面が描かれています。それはペテロの大失態の場面ではありますが、同時に「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」というイエス様の言葉を思い出す、慰めの場面であり、励ましの場面でもあるかと思います。
 ところがです。ヨハネは、泣き崩れるペテロの様子を一切記しません。その一方で、大祭司の庭に入るのに躊躇するペテロの様子は記します。・・・何と言いましょうか。全体的にペテロに対して容赦ない書き方をしているような気がするのです。
 確かに、一介の漁師上がりの田舎者が、大祭司の庭、それも厳重に見張られている裁判の場に勝手に入ることなどできるはずもありませんから、そこには、手配した者がいたのでしょう。イエス様の弟子にはアリマタヤのヨセフなど、中央に顔の利く者たちもおりました。けれど、どのように庭に入ったかは、話の本筋とは離れているような気がしますし、現に、他の福音書では省かれている記述です。あえてそれを書くことで何になるのかと言いますと、ペテロの活躍度が下がると言いましょうか。ペテロは勇んでイエス様の後を追ったのではなくて、門前で思いあぐねている所を、もう一人の弟子に促されて門をくぐるも、イエス様の弟子であることは頑なに拒否をしたということが明らかにされている。それだけではない。その後も2度、彼はイエス様の弟子であることを否定するのです。ちょうど同じ頃、イエス様はわたしにはやましいことは何もない。わたしについては幾らでも証人を呼んで聞くが良い。と、堂々と宣言しているのと重なるように、ペテロはイエス様を否定する。そしてヨハネは、それを強調するように敢えてこのような書き方をしているわけです。
 ヨハネはこの場面を記すに当たって、何を語ろうとするのでしょうか。それはつまり、2つの尋問を並べて際立たせることで、キリストの弟子としてどちらであるべきかを教えているのではないでしょうか。イエス様の堂々とした姿にこそ、キリスト者の勝利があることをです。
 この福音書が書かれた当時、圧倒的少数者であったキリスト者は、信仰を告白することに多くの障害がありました。キリスト者のある者は信仰による戦いに怯え、恐れ、逃れるために、キリストの弟子であることを隠そうとしました。この世に妥協しようとしました。しかし、ヨハネは言います。キリストの弟子であることを隠そうとする限り、不安は無くなることなく、恐れは収まらないということをです。確かにその日、迫害を先延ばしにできるかもしれません。しかし、それは平安とは違います。ペテロは時間が経つにつれ、恐れや不安、後ろめたさが増すばかりでした。そして、決定的なその場面、後悔の念が後を絶ちませんでした。キリスト者がキリストの弟子であることを隠して生きることは、平安をもたらさないどころか、後ろめたさを引きずるのです。後悔が生じます。一方で、イエス様の晴れやかな姿があります。堂々と信仰に胸を張る生き方です。それは十字架へと続く生き方。迫害の中を通るかも知れません。けれど、後ろめたさを感じない、晴れ晴れとしたその生き方は、私たちの心に確かな平安をもたらすのです。

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