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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180527 ヨハネ18:28-40「真理に目を逸らさず」

ヨハネ18:28-40「真理に目を逸らさず」

 イエス様の身柄は、大祭司カヤパの下から総督ピラトの官邸に移されます。当初、ピラトは裁判に消極的でした。ピラトにはイエス様が罪人とは思えなかったのです。しかしユダヤ人たちは「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」と訴えます。つまり、これは死刑に相当する重要案件だ、と訴えたわけです。このように言われれば、ローマ総督であるピラトは無視することはできません。
 改めて官邸に入り、イエス様を尋問するピラトです。「あなたはユダヤ人の王なのか」するとイエス様はそれには直接答えず、逆に質問を返します。あなたの質問は、ただ単にユダヤ人の訴えを確かめるための質問、つまり裁判のための質問なのか、それともあなた自身から出る真理の探究、救い主への渇望なのか、どちらですか?と尋ねられる。そのどちらかによって返答が変わって来るからです。ピラトは「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」と答えます。つまり、祭司長たちがあなたを訴えたから調べているに過ぎないんだと。私が聞きたいのは、あなたがどういう意味での王かということではなくて、何をしたのかという事実だけだとです。イエス様は「わたしの国はこの世のものではありません。」つまり、目に見える政治的な意味での国家を求めているのではないと答えられました。
 さてここで、ピラトは再び最初の質問をいたします。「それでは、あなたは王なのか。」しかしこの質問は、最初のものとは全く意味が違っています。先の質問は事務的で機械的な質問でした。しかしここに来て、彼の質問はイエス様に興味を持ってのものでした。イエス様の答えは彼の理解する王とは全く違うものでした。ピラトの理解では、それは王とは言いません。民も領地も持たない王などあり得ません。無抵抗に自らを差し出す王などいるはずもないのです。だから思わず口に出たのです。「それでは、あなたは王なのか」
 「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」イエス様の言葉にピラトはますます興味を抱きます。「真理とは何なのか」まるで先生に質問する学生のようです。初め、イエス様には全く関心を持たず、自分たちで勝手にすれば良い。と面倒臭そうに言っていたピラトが、イエス様の言葉に触れて、関心を寄せ、今その真意を汲み取ろうとしているのです。では、真理とは何なのか。当然ながら、その答えを私たちも期待するところではないでしょうか。
 ところが、その答えは記されないまま、ヨハネは突然にこのやり取りを終了するのです。「真理とは何なのか」ピラトの質問だけが耳に残り、そして、次に書かれるのは、ピラトによるイエス様の無罪宣言。しかし、民衆の声がこれに反発し、強盗であったバラバが釈放されるという出来事を記して段落が落ち着くわけです。
 何と言うんでしょうか。ヨハネの記述は、肝心なところを書いてくれません。真理とは何なのか。けれど、ヨハネはそれを記してはくれないのです。場面は一気に飛んで、イエス様がバラバの代わりに十字架に付けられることが言い渡されます。あれほどまでにイエス様に関心を寄せたピラトに一体何があったのか。と思うような描き方をするのです。
 真理を辞書で調べますと「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道」とありました。まさしく裁判における最も大切な点です。裁判の判決は、その日の気分によって変わっていいものでもないし、誰かの気持ちを忖度して決めることでもありません。それはいつどんなときにも変わることのない真理によって、判断すべきところです。
 ピラトはイエス様の言葉を聞きながら、尚も、判決に迷いました。そこにはどういう力が働いていたのでしょう。それは祭司長たちからの圧力であり、民衆の声の圧力でありました。彼は如何なる時も変わるところのない真理ではなくて、刻一刻と変わり行く数の力に心を向けていたのです。だから、彼はイエス様が無罪だと確信したにも関わらず、そのイエス様を十字架へと引き渡してしまう。移り変わるものに目を向けた結果、彼の言動は終始一貫しない。絶えず日和見で、信念のない者となるのです。
 何かを判断する時、決断する時、私たちには必ず判断する基準が必要です。多くの人の基準は損得でしょうか。自分にとって、どちらが損か、得か。誰の味方で、誰の敵であるべきか。しかし、その損得は状況によって幾らでも変わってしまう基準です。それはもはや基準とは呼べません。その結果は今の政治を見れば明らかです。私たちは、どちらが損か得かではなくて、どちらが正しいかという基準を持たなければなりません。そして、それは言い換えるなら、どちらがイエス様の道かという基準です。イエス様ならどうなされたか。イエス様なら何を望まれたか。これが、状況に左右されない唯一の基準なのです。

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