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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180603 コロサイ1:11 「寛容な人となる」

コロサイ1:11 「寛容な人となる」

 御霊の実の4番目は寛容です。寛容というのは相手を許す度量のことです。しかし、ここで言う許すというのは罪を赦すの「赦す」ではありません。許容するという意味での「許す」の方です。異なった思想や信条、立場を認めるという意味で使われたりします。一言で言うと、「寛容」とは、違う立場を許すと言っても良いでしょう。御霊の実は、教会に与えられる実ですから、教会は違いを認め合う交わりだと言うのです。
 しかしです。私たちは寛容でありたいとは思うのですが、これがなかなか難しいのです。自分と異なった意見や立場を受け入れたいと思うのですが、なかなかそうはできません。なぜなら、異なった意見や、異なった立場を受け入れるためには、まず自分の主張を引き下げなければならないからです。自分が我慢しなくてはいけない。だから、私たちは寛容でいられないのです。実は聖書で「寛容」と使われるとき、多くの箇所でセットになって使われる言葉があります。「忍耐」です。今日の箇所にも「どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」とあります。寛容であるためには、同時に忍耐が求められるのです。だから、難しい。相手を責めて、排除するほうがよっぽど楽なのです。けれど、本当にそれで良いのでしょうか。それは自ら墓穴を掘ることにはならないでしょうか。ある集団で、自分とは異なる意見を排除していけば、そこは居心地の良い場所になるでしょうか。もしそれを良しとするならば、やがては自分が排除される番になるのではないでしょうか。私たちは寛容を学ばなければなりません。異なる意見を受け入れる心の余裕を持たなければなりません。
 では寛容となるためにはどうすれば良いのでしょうか。一つは、人は違う存在であると認めることです。もう一つは、人は不完全であると認めることです。
 そもそもの話、私たちは一人として同じ存在としては造られていないのです。神様は一人ひとり特別の存在として役割を与えられ、賜物を用意し、命を授けて下さったのです。パウロは教会をキリストのからだと例えます。それぞれが別の役割を持った各機関なのだと言います。一人ひとりは違う存在だからこそ、互いを補い合って、一つなるからだを営むことができるのです。実は私たちが同じでなければならないというのは、幻想です。そもそもの創造の摂理を無視することです。神は人を男と女に造られました。それは同じになるために造られたのではなくて、補い合うために造られたのです。
 面白いことに、神様はあらゆるものを創造されて、その後、自らの創造の様子をご覧になられて、それを良しとされたわけですが、唯一神様が良しとされなかった創造物があります。それが人間です。神様はアダムを見て、「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、「ふさわしい助け手」としてエバを造られたのです。それはつまり、人は誰であれ、不完全であるということです。どれだけ才能があろうと、どれだけ蓄えがあろうと、どれだけ経験を積もうと、人は決して完全とはなり得ない。だから、人は補い合うのです。自分がどれほど正しいと思っても、その正しさは完全ではない。自分がどれだけ優れていると思っても、私たちは遠く完全には及ばない。
 私たちは自分と異なる存在を、不審に思い、邪魔に思います。けれど、その存在がなければ、私たちは本来あるべき姿ではいられないのです。私たちは一人で生きるようには造られていません。神は私たちを助け、愛し合う存在とするために、違う者、不完全な者とされました。ですから、違っていて当たり前なのです。それを無視して、同じにしようとするから寛容でいられなくなるのです。ピリピ2:3には、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。自分の弱さを受け入れる者は、他人の弱さを受け入れられます。己の欠けを知ることが、寛容への第1歩です。

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