FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

180610 ヨハネ19:1-16「まことの王」

ヨハネ19:1-16「まことの王」

 今日の箇所を見ますと、ピラトは終始イエス様の無実を宣言し、何とか、釈放しようと試みています。ところが、ユダヤ人たちは聞く耳を持ちません。それどころか、カエサルの名を挙げて、逆にピラトを脅す始末でした。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」皇帝の名を出されて、これ以上厄介ごとに関わろうという気持ちはピラトにありません。ここにイエス様の十字架刑が決定したのです。
 それにしても、この祭司長たちです。十字架に付けろと扇動する彼らに向って「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」とピラトは尋ねます。これに対して、祭司長たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」と答えて、その質問を切り捨てるのです。しかし、どうでしょう。これは言ってはならない一言でした。それは彼ら自身の存在を否定する言葉。神こそまことの王と告白することに神の民の誇りを抱いてきたイスラエルのアイデンティティーを失う一言です。大袈裟だと言われるでしょうか。それは単なる言葉の綾だと。しかし、そうでしょうか。そもそもの話、彼らはイエス様がユダヤの王と称したと言って訴えたのです。それは神への冒涜だとです。その彼らが、カイザルの他に王はいないと宣言する。それは神への冒涜にはならないのでしょうか。彼らは二枚舌です。イエス様を陥れるためだけに、王の名を売ったのです。自分の都合を通すためだけに、彼らはカエサルを王と叫ぶのです。
 実は今、ユネスコの世界遺産に長崎の潜伏キリシタンが登録されることが内定しています。潜伏キリシタンは、ご存知の通り、江戸時代のキリシタン禁制の折、自らの信仰を隠さざる得なかったキリシタンたちが、様々な隠語や、隠れ蓑を用いて、内なる信仰を守り通してきました。彼らは神社の社を建ててカモフラージュとし、マリアに見立てた観音像を持って、隠れたところで礼拝をささげます。仲間の一人が死んだときは、公には仏式の葬式を施し、しかしその裏で、同じ時刻、別のところで神の祝福を祈ります。彼らは表面では幕府に従う者です。徳川を王と呼び、時に仏を拝みます。けれど、その信仰は、祭司長たちが自分たちの都合を通すために、地上の王を賛美するのとは天と地の開きがありました。彼らは信仰のために偽りました。まことの王を王とするために、意識して偽った。それは彼らの信仰を守る命懸けの戦いでした。
 「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」その言葉の持つ意味を、祭司長たちは恐らく、意識すらしていないでしょう。イエス様を十字架に付けたい一心で、何の罪意識も持たずに叫んだことでしょう。いえ、彼らはもはや割り切っていたのかもしれません。地上の王はカエサル。神は霊的な存在で、神殿の中におられる方。そういう二心が無意識の内に生まれていたのかもしれません。いずれにせよ、意識せずに出る言葉は、その人の日頃からの本心です。彼らは常日頃、ローマ帝国に支配されることに反発し、救い主の到来を待ち望みながら、一方では宗教的な特権が守られていた現状に安住し、王の名を利用して、賢く生きることにしていたのです。しかし、その結果はどうでしょうか。実はこのヨハネの福音書が記された時、すでにユダヤはローマによって滅ぼされておりました。この世の権威を賢く利用し、折り合いを付けた挙句、彼らはその力の前に滅び去るのです。
 私たちの王とは誰かと問われるのです。地上に生きる私たちはこの世の王、権力者を意識せざるを得ません。今政治の世界は一人の巨大な権力の前に、皆が忖度し、口を閉ざします。皆が一斉に黒のものを白と呼ぶのです。しかし目先の利益を追いかけて、永遠を失ってはなりません。この世の王も権威も移り変わるのです。けれど私たちのまことの王は10年、100年、2,000年、永遠に変わるところのないお方です。私たちはこのお方を見なければならないのです。潜伏キリシタンが、なぜ過酷なその状況を耐え抜くことができたのでしょう。それは、永遠の王に希望を置いていたからです。ここに時代や状況に左右されない生き方があります。事実、彼らの信仰は400年の時を経て日の目を見ることとなるのです。

コメント

非公開コメント