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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180617 ヨハネ19:17-24「図られた通りに」

ヨハネ19:17-24「図られた通りに」

 イエス様の罪状書きには何と書かれていたかという話です。そこには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」とだけが書かれておりました。これに祭司長たちが不満を申し立てます。「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」しかし、ピラトは「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」と言って、彼らの要求をにべもなく払いのけました。前回までのピラトと祭司長たちのやり取りから想像しますに、これはピラトの精一杯の意地ではなかったかとも思ったりします。イエス様を尋問しても、何一つ処刑に値するものは見当たらず、ピラトは再三イエス様を釈放しようとしました。けれど祭司長たちは群衆を煽って、イエスを十字架に架けることを要求します。最後には、カエサルの名を出して、脅してきたりもしました。エルサレムで最も権力を持つローマ総督が脅されて従わざるを得なかったのです。ピラトのプライドはずたずたでした。だからこそ、彼はイエス様の罪状を「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記させた。それは祭司長たちへの当てこすりというわけです。しかし、そのことは図らずも、イエス様の一面を正しく言い当てており、大勢の人々がユダヤ人の王と称されたイエス様の死を眺めることとなったのです。
 続く23~24節では、イエス様の着物を剥ぎ取る兵士たちの様子が記されています。当時、死刑執行人は野蛮で不名誉なものとして見られていたところがありました。だからでしょう。人気のない死刑執行人となる者には、処刑される者が着ていた衣服を奪う役得が許されていたそうなのです。彼らはイエス様の着物を4等分して分け合いました。ところが下着はそれ以上分けることができなかったので、くじを引いたわけです。その下着に関して「それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。」とあります。ある神学者が言うに、それは大祭司の下着が一つなぎのものであったことから、イエス様の大祭司としてのご性質を暗示していると言うのです。さらにレビ21:10には「兄弟たちのうち大祭司で、頭に注ぎの油が注がれ、任職されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。大祭司の衣はたとえ死を前にしても裂いてはいけない。その言葉の通り、イエス様の衣は裂かれることなく、くじによって奪い取られた。少々強引ではありますが、イエス様がご自身を生贄として、私たちを取りなされたまことの大祭司であることは、確かに言えるのではないでしょうか。私たちのために裸にされ、辱められ、傷を負ってくださったイエス様。低きを通られる大祭司の姿を記す一つの象徴的な出来事が、このイエス様の衣剥ぎであったと言えるのです。
 さて、ヨハネはこの衣剥ぎの出来事を「聖書が成就するためであった。」と結びます。詩篇22:18の御言葉です。もちろん、ローマ兵が旧約聖書の預言を知るはずがありません。彼らは自分たちの役得分を浅ましく行使したに過ぎません。けれど、それが旧約聖書の預言の成就となったとヨハネは記すのです。
 さて、イエス様の十字架を記すにあたって、殊更、ヨハネがこれらの出来事に焦点を当てたのは何のためにでしょうか。それは、図らずもなされたこれらのことが、実は、天にあっては全て図られたことだと、ヨハネは言いたかったのではないでしょうか。
 私の人生を通して神が描かれるご計画を、私たちは計り知ることはできません。私たちはその時々をただ精一杯に生きるのみです。けれど、その意図せぬ精一杯が、図らずも神のご計画に用いられる。それは私たちが成功したときのことだけではありません。恥ずかしくて消え入りたいこと、無かったことにしたいこと、その一つ一つもまた、神のご計画にあっては大切なピースだとおっしゃるのです。神のご計画は私たちに図れません。ですから、私たちは、私たちの結末を勝手に結論付けてはいけません。意味のないことのように思えることがあります。関係がないことのように思うことがあります。けれど、判断は主に任せましょう。私たちはただ与えられた今日という日を心込めて過ごすことといたしましょう。

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