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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/02/08 創世記47:7-12 「ヤコブの祝福」

創世記47:7-12 「ヤコブの祝福」

 パロと謁見することになったヤコブ。パロはヤコブに「あなたの年は、幾つになりますか。」と尋ねます。古代社会において長寿は尊敬に値すること。つまり年齢を尋ねるのは、エジプトの国王が、一介の老人に最大限の敬意を払っているということです。これに対し、ヤコブは「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖たちのたどった齢の年月には及びません。」と答えます。これは単なる愚痴ではありません。ヨセフとの再会に泣いて喜んだヤコブ。彼は自分の人生が単なる不幸ではないことを知りました。ですから彼が殊更に「齢の年月がわずか」と語ったのは、つまりは「私はパロの尊敬を受けるに値しない者です」という謙遜の現われなのです。彼には年老いていることを利用してパロの好意に漬け込むような姑息な考えや、必要以上に虚勢を張る様子はありません。身分違いの二人ではありますが、ここには権威を振りかざさない王と権威に媚びない族長の互いを認め合う様子が見て取れるのです。
 そのことが最も現れているのが、ヤコブの挨拶の場面です。ヤコブはパロの前に連れて来られ、まずパロに挨拶をします。そして、パロの前から立ち去る時、もう一度挨拶をします。この挨拶は単なる挨拶ではありません。祝福するという意味です。つまりこの場面、ヤコブがパロの前に来て祝福し、そして、再びパロを祝福して去って行く。そういう場面なのです。一介の老人が王を祝福をするということに、身分違いに臆することのない堂々としたヤコブの様子を見て取ることができます。彼は真の王たる神にこそ仕える者だからです。
 11世紀に司教の叙任権を巡って神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世とローマ教皇グレゴリウス七世が対立し、時の皇帝が破門される事件がありました。北イタリアのカノッサ城の門前で、皇帝は破門の赦免を求めて、雪の中を3日間たたずんだと言います。俗に言う『カノッサの屈辱』です。
 キリスト者は世に対して決して臆する必要はありません。私たちはたとえ王の前にあろうとも、媚びる必要はありません。堂々と祝福の言葉を述べるのです。年を取っていようが、若かろうが、貧しかろうが、富んでいようが、関係ありません。相手がどのような者であろうと気にする必要はありません。なぜなら祝福とは、私たちの内にある何かを絞り出すことではないからです。祝福は栄光の主の無尽蔵の恵みをその人に届けることです。大事なのは、この管の両端が、神としっかり結びつき、そしてその人にきちんと向けられていることなのです。

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