FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

180708 ヨハネ19:25-27 「新しい家族」

ヨハネ19:25-27 「新しい家族」

 血生臭い十字架の出来事の中で、ほっと一息、和やかなムードが漂う場面。それがこの、十字架上のイエス様が母マリアを愛する弟子に委ねられる場面です。しかし、この場面。考えれば考えるほどに、なぜ、イエス様は母マリアを弟子に託すのか。という疑問が沸くのです。イエス様は母マリアと愛する弟子の双方に、丁寧に相手を紹介いたします。それはまるで、養子縁組をしているような場面です。事実、「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」とあります。母マリアに他に身寄りがないというのなら不思議ではないのです。孤独な母を親しい者に託す。これならばわからなくもない。けれど、母マリアは本当に身寄りのない孤独な存在だったのでしょうか。
 イエス様が十字架に架かられたのは30代半ばのことです。当然の事、イエス様の弟たちもそれに近い年齢でありました。少なくとも、成人した弟たちが何人か確実におりました。にも拘わらず、イエス様は弟ではなくて、愛する弟子に母を託します。これはなぜなのでしょうか。
 たまたま、弟たちがその場にいなかったから、一時的に弟子に頼んだということでしょうか。けれど、「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」という表現は、決して一時的とは思えません。これから後のマリアの面倒を全て引き取ったというようにしか読めません。では、弟たちが頼りなかったからということでしょうか。しかし、彼らはイエス様が家を出てからの3年間。兄に代わって、家業を支え、母の生活を心身ともに支えて来た実績があります。彼らのその懸命な日々を、イエス様は否定されるのでしょうか。もしそうなら、マリアが納得済みで愛する弟子のもとに身を寄せたということに違和感を覚えます。マリアは身寄りのない独居老人ではないのです。彼女には帰るところも、その帰りを待つ子どもたちもいます。なぜ、イエス様は、マリアを愛する弟子に託すのでしょうか。
 それは、これから母マリアが置かれるであろう状況を想像してみたらわかります。つまり、一家から犯罪人を出した家族の置かれる状況をです。犯罪は多くの人の人生を狂わせます。被害者、被害者の家族はもちろんのことですが、加害者の家族もまた、その人生が破綻します。犯罪者の家族という肩書きと偏見が一生涯付きまとうのです。マリアがこれから置かれる状況を想像してみてください。ユダヤという格別に愛国意識や正義心の強い社会の中で、犯罪者の家族として生きていかなければならないのです。それはもう、社会から爪はじきにされることが目に見えています。もう、彼女は、彼女たち一家は、住まいを変え、仕事を変え、名前を変え、顔を隠してでなければ生きてはいけない。十字架刑というのは、それだけのインパクトを持った刑なのです。だから、イエス様は、母マリアを弟たちではなくて、愛する弟子に託すのです。それはつまり、既存社会から追い出されるであろう家族に、そこに依存しない、新しく生きる場を提供するということであります。
 実は教会にはそういう一面があると思うのです。新しく生きる場、コミュニティーです。私たちは信仰を持つことに不安を覚えるかもしれません。特に家族の反対や、地域の反応。狭い社会の中にいれば尚のことです。けれど、主はそこに新しい家族を用意してくれているのです。今までとは違う神にある価値観を共有する家族。私たちの最も根本となる信仰を共有する家族。互いを必要とし、補い合って、一つなる神の教会を建て上げる家族です。
 私たちは世にあって様々な戦いの中に置かれています。時にはこれまでのコミュニティと決別することすらあります。だからこそ、教会はその人にとっての新しいコミュニティとならなければなりません。教会まで、世と同じ価値観でいる必要はありません。弱さを責めるのではなくて、弱さを受け入れる。欠けを咎めるのではなくて、欠けを補い合う。教会は神の家族のホームなのです。私たちは赦すことで赦され、愛することで愛されます。安心して帰ることのできる家を築くのは私たち一人ひとりの兄弟愛なのです。

コメント

非公開コメント