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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180715 ヨハネ19:18-30「わたしは渇く」

ヨハネ19:18-30「わたしは渇く」

 「わたしは渇く」という言葉は、ヨハネによりますとそれは聖書の成就のためにイエス様が語られた言葉だと言います。聖書の欄外には詩篇22:15や詩篇69:21の御言葉が挙げられております。確かにこれらの御言葉の成就となったイエス様の発言ですが、イエス様の思いの中には、むしろ詩篇42:2の御言葉「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。」があったのではなかったでしょうか。なぜなら「わたしは渇く」とつぶやかれる以前に語られたのは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という悲痛の叫び。父なる神に見捨てられ、御前に出ることすら叶わない究極の悲しみを抱えて、イエス様が「渇く」とおっしゃられたのは明確だからであります。
 そういえば、イエス様はサマリヤの井戸端で一人の婦人に「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。」とおっしゃられました。ところがそのイエス様がこのところで「わたしは渇く」とおっしゃったのです。つまりこの瞬間、内にあって湧き出る泉。聖霊の内住すらもが失われていた。ということでもあるでしょう。この時、この瞬間、イエス様は父なる神、聖霊なる神から見捨てられたのです。
 続けてイエス様は言われます。「完了した。」何が完了したのでしょうか。もちろん、救いの御業が完了したということです。それは、言い換えるとイエス様の死ぬ準備が完了したということです。イエス様は三位一体の神であり、人となろうともその本質を失っているわけではありません。では、神の本質とは何か。それは、永遠です。この世界、この時すらも超越されるお方。この世界の始まりよりも前に、すでに永遠であられたお方。これが三位一体の神です。つまり、死とは無縁なお方がイエス様なわけです。ところが、救いのご計画は、このイエス様が身代わりの死を遂げられることにありました。だからこそイエス様は、この十字架において、父なる神に捨てられ、内住する聖霊から見放される必要があった。永遠から切り離される必要があったのです。
 イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫び、「わたしは渇く」とおっしゃられました。しかしイエス様がここまで叫んでも、神は沈黙し、聖霊は働かれることはない。イエス様はもう三位一体の交わりを失った。永遠という神の本質は失われた。イエス様はそのことを体感して言うのです。「完了した。」すなわち、死ぬ時が来た。というわけです。
 イエス様のこの覚悟はどこから来るのでしょうか。父なる神がここまで非情を通すのはなぜでしょうか。もちろん、それは、私たちが滅びるのを良しとしなかったからであります。三位一体なる神は、私たちへの愛ゆえに、御子イエスを死なせるのです。
 それゆえ私たちは、このイエス様の死に相応しい生を生きているだろうかと自問させられるのです。私たちはイエス様のいのちを犠牲とするだけの価値ある者として行きているだろうかとです。そして、今の私たちを見て主は何と思われることかとです。
 しかし驚くことですが、イエス様はこのような結果に満足したと言うのです。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(イザヤ53:11)イエス様は十字架にあって、神の完全な沈黙を経験なされます。聖霊の不在を経験いたします。しかし、イエス様はその一切の扱いに満足されたのです。そのことが私たちの救いへと繋がることを知っていたからです。ですから、私たちがこのイエス様の死に相応しく生きているのかと問うのならば、それは、この恵みに感謝しているかということです。私たちは相応しくない者です。私たちにイエス様が犠牲とするほどの価値は見いだせません。けれど、相応しくない者が相応しい者とされ、価値の無い者が価値ある者とされた。それは主の一方的な十字架の愛のゆえにです。だから私たちはただ感謝するのみです。私たちはこの愛を正しく受け止める者、感動する者でありたいのです。

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