FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

180722 ヨハネ19:31-37「イエスの死の確定」

ヨハネ19:31-37「イエスの死の確定」

 十字架で息絶えたイエス様に対して、ユダヤ人たち、祭司長や律法学者たちは安息日に死体を十字架の上に残しておかないように、足を折ってそれを取り除ける処置をピラトに願い出ます。と言いますのも、ユダヤには木にかけられて死んだ者はその人の内に埋葬しなければならないと定められていたからです。しかも、その日は備えの日。過ぎ越しの祭りの最中の安息日なのですから、ユダヤ人としては何としても、死体をそのままにはしておけないのです。けれど、イエスが十字架にかかって、まだ一日も経っていません。生きているイエスを下ろす訳にはいかない。そこで、確実に死を早めるために、足を折って、それから取り除けるように願い出たのです。ところが、実際にはもうすでにイエス様は死んでいたので、足を折る必要が無かったということです。
 さらに兵士のうちの一人がイエス様の脇腹を槍で突き刺すと、血と水が出たとあります。ある医学博士がイエス様は致命的な合併症を引き起こしたために、通常よりも早く息を引き取ったのだろうと言っています。そして血と水についても「静脈と肺の動脈と膨らんだ心臓の右側からの滞留した血と、極端に膨張した胃からの水」と指摘しています。つまり、血と水はイエス様が完全に死んだことを医学的に証明していると言うのです。
 聖書はイエス様の死が客観的に何度も確認されたことを記しています。他の福音書では、総督ピラトによって念入りにその死が確認されておりますし(マルコ15:44)、何より政敵であった祭司長、パリサイ人たちがイエスの死を認めていることが記されています(マタイ27:62-66)。むしろ彼らはイエス様の死を利用する輩が出てくるのを心配していたことが記されています。なぜ福音書記者はこのこと、つまりイエス様が確かに死んだという事を強調するのでしょうか。
 ヨハネはこの事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が成就するためであった。と言います。この御言葉は出エジプト12:46「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」から来ていて、過ぎ越しの小羊のための規定です。つまり、ヨハネはイエス様の死と過ぎ越しの小羊を重ね合わせて見ているのです。そしてこの預言、つまりイエス様こそが過ぎ越しの子羊であることが証明されるために、これでもかと言うくらいイエス様の死が確認された、しかも足の骨が折られることもなかったと記すのです。もしも、生贄のいのちが犠牲とならなければ、それは生贄とはいえないわけです。私のいのちの身代わりとして、別のいのちを差し出す。そこに尊い犠牲があるからこそ、生贄は有効なのです。ヨハネにしてみれば、私たちの生贄となるために、イエス様が十字架で死なれた。この事実はどんなことがあっても曲げることのできない真実なのです。
 実はヨハネがこの福音書を書いた時代、グノーシス主義という異端が教会に猛威を奮っておりました。グノーシス主義は、プラトンのイデア論の影響を受けた霊肉二元論を採り、キリストの人性を否定します。彼らにとって重要なのは、神であるイエス様が私を愛し赦してくださっているという事実であって、イエス様が人としてどのように生き、死んだかという部分はそんなに重要ではないのです。こういう教えがこれから蔓延することを危惧する時代にあって、イエス様の十字架の生き証人であるヨハネは、間違いなくイエス様は十字架で死なれたのだと、それは私たちと敵対する人々すらもが確認した疑う余地もない事実だったのだと。そしてだから、この方は私たちの罪の生贄とされたのだと、こう訴えているのです。
 イエス様を直接に見ることのない時代に生きるのは、私たちも同じです。ヨハネたちの世代は疑うことも無かったのです。彼らは目をつむれば、そこにイエス様がいたのです。イエス様の声、イエス様の眼差し、イエス様の息遣いのリアルな体験が彼らにはある。けれど後の時代の者たちには、それがありません。だからこそ、私たちはイエス様の死と復活を証言する使徒たちの教えに聞き従い、留まることが大事なのです。

コメント

非公開コメント