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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180729 ヨハネ19:38-42 「イエスの葬り」

ヨハネ19:38-42 「イエスの葬り」

 イエス様の葬りは二人の人物によって行われたという事が記されています。アリマタヤのヨセフとニコデモです。二人とも、ユダヤ人の指導者、サンヘドリンの議員でありました。議員でありながらイエス様の弟子となった人たち。イエス様の亡骸を葬るのは、他の誰でもないこの二人でありました。ヨセフは自分のために用意した墓を提供します。ニコデモは300キロに及ぶ大量の香料を用意して埋葬します。それはとても丁重な扱いです。
 ところが、この二人は弟子でありながら、これまで信仰を表に出せない臆病者だったのです。そんな二人が、このイエス様の葬りの場面で、自らの私財を持ち出して、人目をはばからず大胆に行動したのです。これは驚くべきことです。
 アリマタヤのヨセフを紹介するヨハネの言葉「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」には、彼が他の弟子たちから蔑まれていた様子が伺い取れます。彼らは常日頃、自分たちこそイエス様の一番弟子と息巻き、ヨセフやニコデモといった信仰を表明できない臆病な者たちを見下していたのではなかったでしょうか。特に、ヨセフやニコデモはイエス様と事ある毎に対峙したサンヘドリンの議員だったのですから、これまでの議会のイエス様への扱い。例えば手配されるような扱いに憤りを持っていたはずです。そして、その矛先は、当然弟子であったヨセフとニコデモに行くのです。あいつらは議員としての権限があるのに、なぜこんな状況を許しておくのか。これはイエス様に対する裏切りだ。ところが、このイエス様の死の場面で、互いの立ち位置は入れ替わります。自らを一番弟子と自負していた12弟子たちは皆、姿を消し、仲間からも陰口を言われていたようなヨセフやニコデモが、イエス様の亡骸と共にあるのです。
 ヨセフやニコデモは、もちろんイエス様がこれから3日後によみがえるなど知る由もありません。これから後、イエス様はよみがえり、教会が起こり、宣教がなされていく。そんなことは想像すらできません。彼らは何も知らない。何も図らない。この場面で彼らが名乗り出ることに、何の特もありません。それこそ、他のユダヤ人から非難されることでしかないのです。ルカはヨセフがイエス様の死刑判決に同意しなかったと記しています。けれど、それがいったい何だと言うのでしょう。イエス様は十字架に架けられて、死んでしまったのです。ヨセフとニコデモは何もできなかった自分、議会を止めることのしなかった自分を悔いて、今更ながらではありますけれど、御前に進み出たのであります。
 十字架の出来事を誰よりも自分の責任と重く受け止めたのが、彼らでした。自分たちに勇気があれば、、、議会の中で、どんな非難も顧みることなく、イエス様の無罪を訴えていれば、、、総督ピラトに自分たちの判決の過ちを告白していれば、、、むごたらしいイエス様の亡骸を前に、彼らの胸は締め付けられるようでした。あの日、あの時に返ってやり直したい。けれど、それはかなわない。この後悔こそが彼らを動かしたのです。
 十字架に対する責任の自覚。信仰の歩みは、ここから始まるのです。イエス様の十字架の死は、私たちの身代わりの死。私の罪のためでありました。罪の自覚なしに、悔い改めなしに、信仰の歩みは決して始まらないのです。逆に言いますと、十字架に対する責任を自覚する時、私たちはイエス様の前に進み出ざるを得ないのです。突き動かされるのです。
 神に用いられる人ほど謙遜であるのはこのためです。その信仰の歩みは、罪の自覚から始まっているからです。自らが正義ではないことの自覚です。ペテロも、パウロも、この福音書を書くヨハネも、皆、十字架に対する責任を深く自覚しておりました。ペテロは3度イエス様を否認します。パウロはキリスト者を迫害した急先鋒でありました。ヨハネが自らを主の愛した弟子と記すのも、まさに自らの内に愛がないことの告白でした。罪の自覚と悔い改め。私こそが、イエス様を十字架に架けた。私のプライドが。私の保身が。私の無自覚こそが、イエス様を死に追いやった。私たちは勇気を持ってこの事実を認めることといたしましょう。

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