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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180812 ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

 ガラテヤ4:12〜20はパウロの語る福音に熱心に応答していたガラテヤ教会の人々が、パウロがいなくなって後、福音に反発するようになった現実と、その背景にある惑わせる者の存在についてを記してます。17節に「あの人たちは」とあるのがそれです。ガラテヤ教会をパウロが去って後、残された人々に熱心に関わる人たちがいたのです。けれど、その熱心には下心がありました。人々を福音の恵みから引き離し、自分たちに引き寄せるためだったのです。
 熱心に関わってくれるというのはやっぱり嬉しいものです。自分に興味を持ってくれている。自分を心配してくれている。そのような相手に私たちは心許すところです。以前、学会員のおばあさんとお話をしました。そのおばあさんが言いますには、どういう教えかとか、難しいことはよくわからないけれども、学会員の人が色々と声をかけて良くしてくれたので、私も学会員になったと言います。だんだんと親しくなっていくと、やがて熱心に関わってくれた義理もあって、断りきれず入会したというのです。人は自分に向けられる熱心さに感動します。熱心さというのは人の心を動かすに十分な理由となるのです。
 しかし、だから私たちも熱心でありましょうと言いたいのではありません。いえ、キリスト者が熱心であることは大切なことではありますが、それでも熱心さは御霊の実ではありません。熱心さは御霊によってもたらされるものではなくて、私たち自身から出ているものです。大切ですが、方向を間違えると、他人をつまずかせたり、欺いたり、裁いたりする原因ともなります。それは熱心であればあるほどそうなのです。もう一度言います。御霊の実は熱心ではありません。善意です。
 では善意とは何かという話です。辞書を調べますと善意についてこのようにありました。①良い心。②他人のためを思う親切心。③好意的に相手の言動などを受け止めることとありました。御霊の実が、敢えて親切と善意とに分けられていることを考えますと、この善意で確認するべきはこの3番目の用法についてでしょう。御霊の実は教会の実、交わりの中に結ばれるものです。私たちが自我を棄てて御霊によって歩むとき、私たちの交わりは御霊の実を結びます。具体的には、相手の言動を好意的に受け止めるようになると言うのです。交わりにおいて、これはとても大事な視点ではないでしょうか。
 どれだけ相手のためを思って親切にしようとも、受け止める側しだいでその結果はいかようにも変わります。たとえば、誰かにお願いごとをしようと声をかけますが、その人は通り過ぎてしまいました。無視をしたのでしょうか。嫌われているのでしょうか。それとも、ただ単に忙しくて気付かなかっただけでしょうか。どちらもあり得ますね。ならば、私たちは後者で受け止めたいのです。
 私たちはあらかじめ敵意を持って相手の言動を受け止めてはいないでしょうか。相手が何をしても何を話しても、敵意のフィルターを通しては、決して御霊の実は結ばれません。もちろん、私たちに向けられるあらゆる言動が、私たちにとって全て親切であるとは限りません。嫌味もある。批判もある。ですから、その信頼は裏切られるかもしれません。いや、もうすでに傷を付けられた関係かもしれない。けれど私たちは、それでも善意でもって備える者でありたいと思います。相手の善意を信頼する者でありたいと思うのです。
 第2コリント7:16には「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。」とあります。問題多いコリント教会を、このように言うことができるまでには、いったいパウロにどれほどの忍耐があったでしょうか。しかし、パウロは彼らを諦めませんでした。きっと彼らは大丈夫と信頼し続けたのです。パウロのこの言葉は信頼の結果です。相手を疑い出したらキリがありません。善意とは相手を信頼する心です。私がまず信頼するのです。そうすればその善意は双方向に育つでしょう。

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