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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/02/01 ヘブル10:19-25 「真心から神に近づこう」

ヘブル10:19-25 「真心から神に近づこう」

 「こういうわけですから」とあります。これまでの話を前提として、本題に移るときの言葉です。では、これまでの話とは何かと言いますと、それは、イエス様がまことの大祭司であり、完全な生贄であるということでありました。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を大事にしてきた民族です。律法を守ることが神の民としての誇りであり、条件だったからです。そして、その律法の原則は何かと言いますと、全ての罪は血によって精算されなければならない、ということでした(ヘブル9:22)。ですから、彼らはことある毎に生贄を捧げました。罪のための生贄、全焼の生贄、穀物の捧げもの、和解の生贄。それらは厳密に所作が定められており、民にはそのとおりに捧げることが求められました。文字通りに従うということが、神への従順と悔い改めを意味していたからです。
 しかしです。文字通りに捧げるということは、考えれば考えるほど、不可能です。確かに律法を徹底することができれば赦されるかもしれません。では、どこまで徹底すれば良いのでしょう。どこまで頑張れば良いのでしょう。赦してもらったすぐ側から、新たな罪を抱えるのが私たちです。だからこそ、イエス様はまことの「大祭司として来られ」(ヘブル9:11)そして「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)…そして手紙は「こういうわけで」と続くのです。
 イエス様は完全な生贄であり、永遠の大祭司であり、その救いは一度きりの永遠の恵みです。しかしこれは飽くまでも前提条件なのです。そこが神のご計画のゴールではない。なぜイエス様は完全な生贄となられたのか。大祭司となられたのか。それは、私たちが神とお会いするため。私たちが真心から神に近付くためです。私たちが神と共に生きること。これが神のご計画の真意なのです。
 神殿は、聖所と至聖所に分かれていました。人と神の住まう場所は完全に分けられておりました。そうしなければ、人は神の義の前に出ることができない者だからです。しかし、イエス様の十字架による贖いが完成した時、神殿の幕は真っ二つに裂けました。それはもはや神と人を隔てる幕が必要なくなったからです。私たちは幕越しに御声を聞く必要はもはや無く、神の御前に大胆に近付くことが出来るのです。それでも尚、心に分厚い幕を覆ってはいないでしょうか。必要ありません。幕を取り払って、真心から神に近づこうではありませんか。

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