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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180909 ヨハネ20:19-29 「信じる者になりなさい」

ヨハネ20:19-29 「信じる者になりなさい」

 福音書の中でトマスが語る場面が今日の箇所とは別に2箇所あります。一つはイエス様がラザロの死を宣言されて、彼のもとに行くとおっしゃった時に、トマスが弟子仲間に向かって言いました。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」実はこのラザロの出来事よりも前に、イエス様はエルサレムで石打ちにされそうになりました。そこで、一行は、ヨルダン川の向こう側に退いていたのです。ですからイエス様がラザロのもとに行くとおっしゃった時、あの危険な地にもう一度戻るのか、と弟子たちは怖気づいたのです。ところがトマスは言います。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」もう一つのトマスのセリフは、最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちの場所を備えに行くと宣言される場面です。トマスが尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」どちらの場面も、トマスの発する言葉は、イエス様に付いて行く。その決意から来る言葉です。言葉数は少ないですが、イエス様に向ける想いは誰よりも熱いのがトマスであります。
 ですから、彼の頑なな言葉は、彼の疑い深さというよりは、むしろ彼のイエス様に対する情熱から来る裏返しではないかと思うのです。それは精一杯のトマスの強がりではなかったか。盛り上がる弟子たちの報告を聞き、自分一人、置いてきぼりをくらったような寂しさや悔しさを覚えて、思わず口にしたのがこの啖呵ではなかったか。皆が見て信じたのに、自分だけが見てもいないものを信じるとは口が裂けても言いたくないトマスなのです。でも、これって実は、俺もみんなと一緒に喜びたかった。よみがえられたイエス様に会って話したかった!という想いの、裏返しですね。彼を苦しめるのは、頑なにするのは、実は、イエス様を慕うその強烈な想いゆえでありました。
 1週間が経って、戸に鍵がかけられていましたが、いつの間にか、イエス様は皆の真ん中に立っておられました。そして言います。「平安があなたがたにあるように。」それは自分だけが取り残されたと嘆くトマスのために、1週間前を忠実に再現するイエス様であります。そして、今度はトマス一人に向けて言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」それはまさにトマスの言葉の再現。自分だけは見ていないと苦しむトマス。しかし、イエス様は見ておられた。聞いておられた。イエス様の言葉を聞いた瞬間、トマスは自身の不信仰に気付かされるのです。これはトマスにとっての鶏の声です。自らの愚かさに直面する場面。主イエスの偉大さにひれ伏す場面。主は全てをご存知で、全てをお許しになって、尚、私を招いてくださっていると知らされた場面でありました。
 「私の主、私の神よ。」これはトマスの心からの信仰告白です。今更、傷跡を指で突つくことはいたしません。その必要がない。なぜなら、イエス様はトマスの痛みを知っていてくださったからです。トマスの悲しみを見ておられた。8日目のこの日、イエス様はまさにトマスのためだけに現れてくださったのです。
 私たちがイエス様を信じる根拠はまさにここにあるのです。イエス様を信じるのに、その傷跡を見る必要はありません。イエス様は私を知っておられる。私を見ておられる。確かにトマスはイエス様の傷跡を見て信じました。けれどそれは、傷跡を通して、イエス様の憐れみに触れたということに他なりません。イエス様の眼差しがある。私たちが見ずとも、イエス様は見ておられる。イエス様は私たちの叫びに耳を傾け、私たちの痛みに寄り添い、私たちに関心を持って関わってくださるお方です。妬みや無知や偏愛。私たちの内に信仰を妨げる要素は幾らでもありますが、イエス様の愛はどんな時も変わらない。だからこそ、私たちはこのお方を安心して信じることができるのです。

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