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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180916  ヨハネ20:30-31 「ヨハネの願い」

ヨハネ20:30-31 「ヨハネの願い」

 ヨハネは福音書の結びにあたって、その執筆理由を記します。それはヨハネの最も伝えたいこと。それは「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。今まで散々にイエス様の様子を思い出しながら書いてきたのは、全てこのためだと言うのです。
 この時代、ローマ皇帝は神の子と呼ばれ、崇められておりました。また、自らをキリストと語る者たちも数多く現れました。実はヨハネによる福音書の執筆に先立つ数十年前、紀元66年ですけれどもローマとユダヤの間でユダヤ戦争が勃発し、紀元70年エルサレムが陥落。エルサレム神殿も無残に破壊されました。ユダヤ人は国を追われて、ほうぼうに離散し、住み着いたそれぞれの地でコミュニティーを造り、会堂や祈り場で礼拝を捧げるようになっておりました。今、この福音書を書いているエペソも、そのようなユダヤ人が多く移り住んだ地でした。当然、国を追われたユダヤ人が望んだのは、救世主の到来です。彼らには具体的な救世主像がありました。それは古くはモーセやダビデのようであり、新しくはユダ・マカバイのような人物。つまり、再び民をまとめ上げ、神からの約束の地を取り戻して、自分たちを導いてくれるところの救い主です。そして、それに応えるかのように、にせキリストが多く現れたのです。そういう時代背景にあって、ヨハネは、そうじゃないんだと。ローマ皇帝でも、にせキリストでもない、キリストはイエス様に他ならないんだと、こう伝えたいのです。そのために私はこれを書いたんだとです。
 そして、そのための根拠となる出来事をヨハネは厳選して記すのです。それは6つの癒やしの記事と、十字架と復活の出来事。「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。」とあります。他の多くのしるしが信仰に関係がないというのではありません。ヨハネはすでに世に広まっていた他の福音書を意識しています。もうすでに多くのしるしは書かれているのです。ヨハネはその足りないところを埋めるかのように、それでいて、これだけでも信仰に導かれるようにと、吟味し配慮しながら、この福音書を記すのです。
 ヨハネの福音書が、他の福音書と随分と趣が違うのは、このヨハネの情熱故にです。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書はイエス様が何を教え、何を為されたのか、とにかくイエス様を忠実に記すことに焦点を置きます。けれど、ヨハネの場合、イエス様を記すのは同じですが、そこで明らかに読者を意識します。これを読む者が、イエスが神の子キリストであることを、信じるために。また信じて、いのちを得るために。ですから、あのときのイエス様の言葉はこういう意味だったとか。その当時はわからなかったあの言葉には実はこういう意味があったと言うように、要所要所にヨハネの解説が記されるのです。
 さて、老使徒ヨハネは今、自らの最後を覚悟しながら、この福音書を記しています。なぜなら、イエス様の復活の証人として、このお方を後世に語り継ぐ責任があるからです。けれど、ヨハネ自身は天に召されるときが迫って来ている。文字という形で、イエス様は時間と空間を超えて届けられるのです。
 ヴィッテンベルク教会の扉に95カ条の提題を貼り付けたことから宗教改革は口火を切りました。それは瞬く間にヨーロッパ全土広まり、世界を二分することとなりました。これを可能にしたのか、グーテンベルクによる活版印刷の技術です。つまり、活版印刷によって、これまで教会が独占していた聖書が民のものとなったのです。聖書を通して直接イエス様を知った者たちが、ルターとともに立ち上がったのです。書かれた文字ではあるけれど、御言葉にはそのような力があるのです。それは人々をイエス様と出会わせ、イエス様に倣う者へと創り変える力です。イエス様を神の子キリストと信じさせ、イエス様の名によっていのちを得させる力です。そして、今、時代と空間を超えて、イエス様はこの聖書を通じて私たちに語りかけるのです。

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