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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/05/31 ヨハネ1:29-34 「キリストの先在」

ヨハネ1:29-34「キリストの先在」

 ヨハネはイエス様を指して「『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」と言います。しかし、このヨハネの言葉は明らかにおかしな言葉です。あとから来る人が、私より先におられた。このシチュエーションが可能なのは、イエス様が実はベタニヤ出身で宣教活動をしに来たヨハネよりも先にそこに住んでいたとか、もしくは、イエス様がヨハネよりも年上で人生の先輩という意味で私より先におられたとか、それとも、宣教の働きにおける先輩という意味で私より先におられたかのいずれでしょう。しかし、そのどれも事実とはかけ離れています。イエス様はベツレヘム生まれのナザレ育ちですし、ヨハネのほうが半年早く生まれています。若くから宣教活動を開始したヨハネと比べて、イエス様は30歳になられてから公生涯を開始いたします。ですから、イエス様がヨハネよりも先におられるというのは、普通に考えるとおかしな話です。
 ですから、ヨハネはイエス様の目に見える部分を指して、先におられたと言っているのではありません。イエス様の本質。イエス様の神性を見て、先におられたと言っているのです。つまり、私よりもあとに生まれ、遅れて宣教活動に入られたその方は、そもそもこの天地の創造主であり、全てに先立つお方ですよ。だから、私なんぞが足元にも及ばないお方なんですよ。と、こう言っているわけです。
 さて、このことを神学用語ではキリストの先在性と言うんですけれども、このことはイエス様の神性を表わす大変重要な要素です。特に、当時の人々にとって目の前にいるイエス様は明らかに人でありますから、彼らが十字架と復活以前にイエス様を神と理解することは大変難しい問題でした。いえ、当時だけではありません。キリスト教会の歴史は、イエス様をどのように理解するかで、何世紀にも渡って議論を重ねた歴史があるのです。つまり、キリストの二性一人格を巡る長い教会の歴史です。キリストは神か人か。この問題は、教会の中で繰り返し繰り返し議論を呼びました。
 キリスト者の中には人としてのキリストを否定する者がいました。神であるキリストが滅び去る肉体を取られるはずがないというのです。その逆に神としてのキリストを否定する者もいました。神は並び立つ者のない唯一無二のお方であり、キリストを神と同列に認めることはできない。とです。せいぜい、神未満、人以上の存在であると言うのです。
教会はこれらの両極端な考えに触れて、正当な信仰とは何かを定めていく必要に迫られます。そして、長い議論を経て、451年のカルケドン会議において、「イエス・キリストが、完全に神性をとり完全に人性をとりたもうことを、告白するように教える」と定めたのです。考えてみますと、それはイエス様を「私のあとから来る人」と言い「私より先におられた方」と言ったヨハネの理解に、400年以上をかけてようやく至ったということです。
 なぜ長々とこのような話をしているのか。それは『キリストとはどのようなお方か』という問いが、私達の救いに関わる根本的な問いだからです。キリストが神であり人であればこそ、人類のための永遠の贖いとなることができるのです。もしキリストが神でなければ、どれだけ立派な人であったとしても所詮人、神の義の要求に適うことはできません。神の義を満たすのは、神のみです。一方で、もしキリストが人でないとすればどうでしょう。神であるということは永遠であり、死を知らないということです。しかし、死をもってでなければ贖いは成りません。キリストが私たちの贖いとなるためには、キリストが人の身を取らなければ決して成らないのです。また、神であるということは罪を知らないということでもあります。神と罪は決して交わることのない存在です。ですから、この方は人々の弱さに同情してくださらないということになるでしょう。父なる神の前にあるキリストのとりなしは、このお方が人としての弱さを知ってくださったからこそです。ですから、私たちはキリストを神であり人であると信じるより他はないのです。私たちが理解できるかどうかが大事なのではありません。神がどのようにご自身を啓示しておられるのか。私たちは主が語るそれを信じるのです。

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