FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

181111 ヨハネ21:20-23 「この人はどうですか」

ヨハネ21:20-23 「この人はどうですか」

 「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」これはペテロの殉教を予言した言葉でありました。これを聞いて、ペテロは「はい。従います。」とは言いません。彼は振り向いて、イエスが愛された弟子、ヨハネを見ながら問うのです。「主よ、この人はどうなのですか。」ここに、主を愛し続けた弟子と、主に愛された弟子が並び立つのです。
 ペテロは何かあると、まっ先にイエス様に付き従い、その行動力ゆえに他の弟子たちからも一目置かれておりました。彼はヤイロの娘が死んで蘇る場面に立ち会い、イエス様の栄光ある姿をヘルモン山にて目の当たりにし、ゲツセマネでもイエス様の身近くに呼ばれました。自分こそはイエス様の一番弟子。ところが、そこにはいつも、ヤコブとヨハネの兄弟が一緒でした。ペテロから見れば、なぜこの兄弟、とりわけヨハネがいつも御側に呼ばれるのかがわからない。ヨハネなど、年若いだけの生意気な鼻垂れ小僧ではないか。確かに、ヨハネは、いつも三羽烏として呼ばれ、イエス様の御側に置かれるのですが、ペテロに比べると目立って活躍いたしません。なのにイエス様に愛されるのはいつもヨハネです。ペテロがヨハネに嫉妬したのは無理からぬことです。もちろん、聖書はそこまで記しておりません。ただ、ペテロの問いがあるだけです。ですからこれは想像でしか無いわけですが、ペテロは自身が与えられた使命の大きさに圧倒されて、自分よりも弱く活躍もない若造のヨハネを捕まえて、安心しようとしたのではないか。「ああ、あのヨハネはあなたとは違う。わたしに従う者は、みな望まないところに連れていかれる。それは誰もが担えるものではない。だからこそあなたに言うのだ。皆の見本として、立派に使命を全うしなさい。」と言って欲しかったのではないでしょうか。
 さて、これに対してイエス様の返答は素っ気ないものでした。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」関係ない。と言われるのです。主の召しは、その人その人に個別に与えられる使命だと。主に従う者が100人いれば、その従い方は100通り。それは比べ得るものではありません。パウロはローマ12:3で「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」と言っていますが、これはまさにその通りでして、誰かの真似をして生きることも、誰かと比較して落ち込むこともない。神が求められるのは、あくまでも神が与えられた恵み、賜物に応じて精一杯に生きるということであります。
 ペテロはイエス様の言葉どおり迫害の中に殉教したと言われています。ヨハネは逆に殉教の恵みにあずかることは無かったですが、最後まで生き延び、それゆえ福音書を残します。二人とも、賜物に応じて精一杯に生き、そして死んでいったのです。私たちもと思うのです。私たちはすぐに「この人はどうなのですか」と問いたくなります。しかし、それは純粋なその人への関心というよりは、むしろ、自身への言い訳にはなっていないでしょうか。自分よりも若い人。ドジな人。活躍していないように見える一人を指さして、「この人はどうなのですか。」と、安心しようとしてはいないでしょうか。自分よりも楽をしていると見えるその一人を指さして、「この人はどうなのですか」と糾弾してはいないでしょうか。そして内心では、自分をアピールする材料にしてはいないでしょうか。
 違います。人にはそれぞれ委ねられた使命があります。殉教すること、しないことに優越感も劣等感もありません。目に見えて活躍する兄弟姉妹に、嫉妬も羨望も持つ必要はありません。委ねられた使命が違うのです。「あなたの道を行きなさい。」と主は私たちに語り掛けておられるのです。

コメント

非公開コメント