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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181118 ヨハネ21:24-25 「恵みは十分にある」

ヨハネ21:24-25 「恵みは十分にある」

 ヨハネの弟子たちは、ヨハネが召された後、ヨハネ先生が残したイエス様の回想録を教会の教えとして広めるわけですが、その時この21章を付け加えたと考えられます。なぜでしょうか。本来ならば、20章で筆は置かれていたわけです。けれど、弟子たちは、ペテロの再召命の場面を書き記し、ヨハネの使命について言及します。それはつまり、イエス様の使命が引き継がれる場面を書き残したということです。
 当時、キリスト教会は、もうすでに舞台をエルサレムからローマ各地に移しておりました。彼らのほとんどは、キリスト者と言いながらイエス様を直接見たことも聞いたこともない。彼らにとっては、ペテロであり、ヨハネであり、パウロこそが先生であったわけです。コリントの教会が分裂騒ぎを起こしていた時、彼らはパウロに付く、アポロに付く。と言い合っていたわけですが、それは文字通り、パウロ先生に習おう。アポロ先生を信じよう。という争いでもあった。そこでパウロはイエス様こそが土台なんだと。だから、私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者だと考えなさい。と言っていたわけです。これはヨハネの弟子たちも同じでした。ペテロが殉教し、ある意味で神格化されそうな当時の雰囲気があったのです。迫害の中死んでいったペテロやパウロを称える当時の状況があった。そんな中、どうしても記さなければならなかったのは、それはイエス様に由来した、使命に生きる弟子たちの生き様であり死に様なんだと言うことではないでしょうか。
 イエス様こそが、とはヨハネが特に意識して記したことです。ご自身を良い羊飼いであり、門であり、ぶどうの木だと語られたイエス様の言葉を記します。イエス様こそが道であり、光であり、いのちだとも記します。そして、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」にこの書を書いたとも言っています。ですから、ペテロやヨハネのことで特筆すべきは、彼らがどれだけ優れているかではなくて、彼らがイエス様の福音を引き継いだということではないでしょうか。自分たちの先生を祭り上げる空気の中で、そうじゃない。イエス様から先生たちに引き継がれた福音は、次に私たちが引き継がなければならないんだと。ヨハネの弟子たちの決意がこの21章に見て取れるのです。
 さて、21章の結語は、20章のそれと比べると、子どもの言い訳じみていて、非常に野暮ったく感じます。けれどです。書き方どうこうというのは、21世紀の今の感覚で思うところでして、その意味するところは、私たちの神観、聖書観に繋がる、とても重要な一文であると思うのです。
 ここでは二つの点に注目したいと思います。一つは、単に書ききれないと言っているのではなくて、世界もその書かれた書物を収められない。と言っている点です。つまり彼らはイエス様を単なる偉大な先生とは見ていません。彼らはイエス様がこの世界に収めきれないお方。被造物に収まることのない創造主なる方と見ているのです。神である方を書き尽くすこと。知り尽くすことなど、被造物である人間には到底できない。ここに神のことばに対する謙虚さがあります。これこそ、私たちの倣うべき姿です。私たちは神を知りたいと思い、聖書を読みます。イエス様を理解したいと願い、神の言葉に聞きます。けれど、私たちは被造物である限界を知らなければなりません。私たちが神を知った。わかったと言うのなら、それは私たちの驕りです。人が最初に持った誘惑は、神のように知る者になりたいというものに他ならないのです。
 もう一つの注目すべき点は、この福音書が、収めきれないイエス様の全貌の中で、敢えて書き記された書物であるという点です。つまりイエス様の全貌は見えないけれども、イエス様を救い主として信じ、イエス様の名によっていのちを得るために必要な教えは、十分この中にあるんだということです。そして私たちにとってもこれで十分なのです。

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