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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181202 ルカ1:5-23 「ザカリヤのアドベント」

ルカ1:5-23 「ザカリヤのアドベント」

 イスラエルにとって子が生まれるというのは=神からの祝福と考えられておりましたから、不妊というのは神の祝福が及んでいないという風に考えられていました。ですから、不妊の夫婦というのは、それだけで肩身の狭い思いをする、そのような社会でした。ザカリヤとエリサベツの二人は特に世襲制の祭司家系でありますから、周囲からのプレッシャーは尚の事。人々の何気ない、善意からの一言に彼らは傷付き、心痛め、悲しみ、しかしそれでも誰かを憎むことなく、神を恨むことなく、落ち度無い生活を過ごしてきた二人でした。
 神殿で香を炊く務めは祭司にとっても特別の務めでした。生涯に一度だけ、一度当たれば次からはくじから避けられて二度とできないほど名誉ある務め。ザカリヤは高まる胸を押さえながら、落ち度無く、慎重にと、この務めを果たしていたことでしょう。すると、そのような彼の下に、御使いが現れるのです。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」年老いたザカリヤにとって子が欲しいという願いは、もう随分前に諦めたことでした。しかし、それでも捨てきれない願いというものがあります。年をとったから。妻が不妊だから。頭でわかっていて、そのように自分自身に言い聞かせて、むしろ願い続けることのほうが理不尽だということが身に沁みてわかって、やがて祈ることすらやめて、しかし、それでも捨てきれない願いというものがある。御使いはそのような心の奥底に閉じ込めた願いを聞かれて、「あなたの願いが聞き入れられたのです。」と語ったのでした。
 ザカリヤの姿を見ながら、祈り続けることの困難を覚えます。これは何も、子どもが与えられるかどうかということだけの話ではありません。私たちの人生には、長い年月をかけてあきらめざるを得ない祈りというものが時にあるものです。自分の身に降りかかった不幸や試練を、私たちは長い時間をかけて、少しずつ受け入れ、心に折り合いをつけていきます。祈り続けることよりも、祈りを止めることで、心の安らぎを得ることがあります。
 しかしです。ザカリヤとエリサベツを見る時、これまでの長い長い悲しみの日々。祈りが聞かれないと嘆いたその沈黙の日々には、意味があった。まさにこの時のためであったと知るのです。
 長い悲しみの末に、もう人の手には完全に不可能になって、子が授かる。ヨハネの誕生はそうでなければならなかったのです。なぜなら、常識では考えることのできない、信じられない奇跡だからこそ、マリアに勇気を与えることができたからです。エリサベツが若ければ、マリアにとって何の力添えにもならなかったことでしょう。彼女がもう何人も子どもを産んでいる人だったら、それは何の不思議でもありません。彼女が不妊の女だったからこそ、そのことに苦しみ、涙した日々をマリアが知っているからこそ、エリサベツの存在はマリアが神に委ねる後押しとなったのです。彼らの悲しみの日々が必要だったのです。
 つまり、ザカリヤとエリサベツの願いは、これ以上無いみこころの時に適えられたということです。これが神の時と言うのです。これまでの彼らの人生は、忍耐の人生でした。悲しみを抱えた人生でした。それは、自分たちの思い描く方法、自分たちの思い描く時、自分たちの願いどおりにならないことに対する悲しみでありました。しかし、彼らは悟ります。自分たちの願いを遥かに超えた神のご計画があることをです。むろん、このことは私たちにとっても言えることです。私たちは、私たちの思い通りを神に強要します。私の願う方法が最善であると信じています。だから、事が思い通りに進まない時、神はどこにいるのかと嘆くのです。しかしそうではありません。神のご計画こそが最善なのです。私たちは今日、思い通りにいかないことに嘆く必要はありません。ザカリヤとエリサベツは、不妊のまま年を重ねる必要があったのです。全てのことを用いて、神は最善をなしてくださるのです。神の時は最善の時。それは私たちの人生にも備えられています。

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