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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181223 ルカ2:1-7 「待望の日」

ルカ2:1-7 「待望の日」

 今年はアドベントという括りで、この降誕の出来事を見ています。待望の日を振り返りますと、その日は準備のない、行き当たりばったりの末の出来事。ヨセフとマリアは皇帝の一言で、右往左往する日常の中で、この日を迎えます。決して我が子の誕生を、万全を期して備えたわけではないのです。ホントだったら、住み慣れた我が家で、きれいな産着を着せて、ふかふかのベッドに横たえたかったと思うのです。我が子の出産に、色んな夢があったと思うのです。けれど、そういう計画は全てご破算にされる、この世の力というものがある。彼らの存在は吹けば飛ぶような小さなものであります。けれど、神は、そういう意図せぬ計画、不本意な決断すらも、最善と導かれ、この日を迎えるのです。
 もしキリストが、皇帝のような待遇で生まれていたなら、王宮のフカフカのベッドの上で生まれていたなら、いったい誰が、このキリストによって救われるでしょうか。もし神が高いところから私たちを見下ろして、長い蜘蛛の糸を登りきった者だけを救われるような方なら、いったい誰が、この救いに与ることでしょう。イエス様は宮殿ではなくて家畜小屋で。ふかふかのベッドではなくて飼い葉桶で。産まれる必要があったのです。イエス様はナザレではなくて、ベツレヘムで産まれる必要があったし、そのためには、皇帝の住民登録の号令が必要だった。そうでなければ、イエス様は極一部の、限られた者だけを対象とする救い主であったことでしょう。ヨセフとマリアにとってそれは降り掛かった災難でしか無かったとしてもです。
 私たちの人生を揺るがし飲み込むような、世界や時代の力というものがあります。私たちの目を奪うようなきらびやかで、心地良い出来事があります。逆に、私たちの人生を遮るような出来事がときとしてあります。なんでこんなことになったのかと、口を開けば不平不満しか出てこないような、そういうことがあります。自分だけが神に見放されたのかと思うような出来事が突如として降りかかることがある。けれど、クリスマスの出来事を見ますと、それら一切のことが用いられて、神のご計画が成るのです。その出来事の意味は、私たちの内には無くとも、神のご計画の内にはあるのです。そしてそのことを、私たちは振り返って知るのです。
 主の降誕を待ち望むアドベントを、ヨセフとマリアは、計画通りに過ごしたわけではありません。彼らにはもっと違った計画があったことでしょう。きれいな産着も着せたいし、ふかふかのベッドも用意したかった。住み慣れた家で、その日を迎えたかった。けれど、実際は、彼らにはどうすることもできない状況の中で、懸命にその日その日を過ごすことしかできなかったのです。これは、主の再臨を待ち望む私たちも同じです。その日がいつかはわからないし、明日に何の保証があるわけでもありません。私たちは今日という日の意味すらわからない。でも、だからこそ、私たちは今日を主の前に恥ずかしくないように生きるのみです。主のご計画の中にある今日なのです。一切の出来事が、主の手にあって用いられたのです。であるならば、私の今日という日も、主のみこころのままにあるべきです。

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