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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190113 ハイデルベルク信仰問答 問3~5

ローマ3:9-20 「私たちの悲惨」

 私たちは悲惨だと、ハイデルベルク信仰問答は言います。どういう意味でしょうか。必ず死を迎えるこの身を悲惨と言うのでしょうか。何を手にしても決して満足することのない欲望の虜であることを悲惨と言うのでしょうか。実はここで使われる悲惨とは、もともとは「土地から離れる」という意味の言葉が使われているのだそうです。それはつまり、本来あるべきところにない。本来あるべき姿を失ってしまったことの悲惨です。では本来の私たちの姿とは何でしょう。それが律法の示す所です。すなわち神と人とを愛するという神の被造物としての本来の姿です。
 今日このところで特に覚えたいのは、私たちが神と隣人を愛することが全くできないどころか、「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」者だということです。私たちの愛が足りないとか、愛し方が難しいとか、そういう話ではないのです。愛するどころか、憎んでいる。それが私たちの本質なんだとこう言っているのです。
 正直、そこまで言う必要はないんじゃないかと思ったりもします。確かに愛が足りないと言われればそうかも知れない。神を後回しにして自分のことばかりしている私かも知れない。けれど、それで神を憎んでいるとは言い過ぎではないか。他人の心配よりも自分の心配ばかりと言われればそれは確かにそのとおり。でも自分の心配を優先したのは余裕が無いからであって、決して他人を憎むほどの悪意があるわけでは決してない。そもそも、律法によって悲惨さに気付くというのは、律法を守ろうとして守れない、愛そうとして愛せない自らに気付くということですから、それは愛する方向に向いている証拠ではないか。と、こう思ったりもするのです。
 けれど本当にそうでしょうか。本当に、私たちは愛することを望んでいるのでしょうか。本当に、愛そうとしているのでしょうか。愛することとは何か。一言で言うと、それは相手のために「いのちを捨てる」ということです。では、私たちは神のために、隣人のために、いのちを捨てることを本当に望んでいるのでしょうか。私たちは口では愛している。愛そうと努力している。と言いますが、やっぱりいのちを惜しむ者ではないでしょうか。いのちを捨てたくない。犠牲になりたくない。そういう者ではないでしょうか。私は別に、だから悪いと責めたいのではありません。ただ私たちの本質の部分を明らかにしたいのです。私たちは愛する者になりたいです。誰かのために喜んで犠牲を負う者になれたらと思います。けれど、やっぱり愛せない。願うように生きられず、憎むように生きてしまう。これが私たちの本質ではないでしょうか。
 この悪に傾く心については、急な坂道を思い浮かべればよいでしょう。心が傾いているというのは、必ずしもそちらを向いているということだけではありません。神を知り、神を信じる私たちは神に向かって、天に向かって長い長い坂道を歩きます。けれど、時に休憩するのです。立ち止まるのです。するとどうでしょう。足元は坂道。イメージ的には急な崖の斜面くらいを思い浮かべればよいかと思います。そんなところで立ち止まれば、体は自然と坂を下っていくのです。足は滑り落ちていくのです。幾ら神に向いていようと、愛していますと告白しようと、足元ごと滑り落ちてしまうなら、それでは決して登り切ることは適いません。神に向かうことを願いながらも、悪に引き寄せられてしまう。これが私たちの悲惨です。
 しかし、だからこそ私たちはこの悲惨を知ることで、自らの力に頼らない、神の恵みに目が向けられるのです。もう一度思い出したいのは、そもそものこの悲惨は、唯一つの慰め、私が主のものであること失った結果でした。主に委ねて生きるということを失い、私の思うまま、自分を主人として生きるようになった結果です。だから悲惨なのです。一人では滑り落ちてしまうとしても、主とともにであれば平気です。主は私の命綱を握って、悪に傾く私たちの心を、ご自身の側へと引き止めてくださるのです。

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