FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

190127 ハイデルベルク信仰問答 問9~11

申命記7:9-11 「罰せられる神」(義なる神)

 堕落という出来事によって決定的となった私たちの悲惨ですが、この創造と堕落の出来事を話しますと必ず出る反論があります。なぜ神は罪を犯すかもしれない人間を造られたのかというものです。しかしこれは神が人の自発的な応答を望まれて、敢えてその選択の自由を与えられたのだということを前回確認しました。神は人が意思を持って神に従うことを望まれました。しかし人は身勝手な不従順によって、神に従わず、自らの思いのままに生きることを選んだのでした。
 その結果、どのような結末が待ち受けているのか。ハイデルベルク信仰問答は答えます。「神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによってこの世においても永遠にわたっても罰したもうのです。」神は人類の罪を激しく怒っておられます。誰も自分に罪はないと言い逃れられません。それは生まれながらの罪も実際に犯した罪も同じように怒っておられるからです。ご自身が最高のものとして造られた人が、全く違う本性になってしまっているのです。特別に目をかけ、他のあらゆる被造物とは違う、ご自身の使命を任すべき存在として造られたのにです。その存在は神の栄光を現すどころか、逆に神の名を貶める存在となり果ててしまっている。神はご自身が造った人間が、こうも崩れた本性となり下がったことに、怒らずにはおられません。神はただしい裁きによって罰するとあります。しかもこれはこの世においても、永遠にわたってもだと言います。徹底的に罰っせられる神。これが聖書の語る神なのです。そして私たち人間の負わなければならない現実と言うのです。
 しかしここに、もう一つの反応があります。それは開き直りと言いましょうか。問11「しかし、神は憐み深い方でもありませんか?」言い換えると、神は愛の神じゃないのか?という反論です。完全な責任の転嫁です。非常に見下した言い方だと思います。神が滅ぼすことを私は認めない。神は憐み深くあるべきだ。しかし、多くの人が実はこのような神観を持っているのです。つまり神の存在は認める。けれど、それは自分にとって都合の良い神、便利な神である限り認める。という、完全に主従を逆にした神観です。
 神は確かに憐み深い方であります。愛の神です。しかし、その愛は罪を見逃す愛でしょうか。その憐みは無条件に向けられるものでしょうか。聖書にはどこにもそんなことは書いてません。聖書の神は裁きの神であり、妬まれる神であり、被造物がどう思おうと、ご自身の意思を優先することができるお方であられます。そしてその神が示される愛とは、愛するひとり子のイエスを身代わりの命としてお見捨てになったことではなかったか。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)とある通りです。愛の神なら赦して当然でしょ。と言うのは、イエス様は身代わりになって当然でしょ。と言うのと同じです。自らの罪を棚に上げて、神は憐み深い方ではないかと言う人は、あまりにもイエス様の命を軽く見ているのです。
 神は何よりもまず義なる神なのです。もし神が罪を曖昧にするならば、もはやそこに義は無いのです。そして、もしも神が不義な方なら、実はこれほど怖いことはありません。それは気分一つで裁きをする独裁者のようなものです。いつ根拠のない裁きが下るわからない中、怯えながら過ごすしかありません。神が義なる神である。だからこそ私たちはこの方の裁きに全幅の信頼を置くことができるのです。そして神は、そのご自身の義ゆえに、罪を罰せずにはおられないのです。
 私たちには、神の愛を盾にして、神を脅すことは赦されておりません。責任転嫁して罪を誤魔化すことはできません。私たちは罪の本性を認めるべきです。私たちがその罪ゆえに滅びるべき存在であることを、ただ真摯に受け入れ、神の前に頭を垂れる者であるべきなのです。

コメント

非公開コメント