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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190203 ハイデルベルク信仰問答 問12~15

Ⅱコリント5:20-21 「ただ一人の仲保者」

 罪の償いはどうすれば良いのでしょう。神様のみこころを思われるようなことを積み重ねていけば、神はその頑張りを認めて、罪を赦してくださるのでしょうか。そうではありませんね。ハイデルベルク信仰問答は、それは決してできないと言っています。なぜなら、私たちは日ごとにその負債を増し加えているからだと言うのです。じゃあ、どうすれば良いのでしょう。
 出エジプトの折、神はモーセを通じて10の奇跡をエジプトにもたらし、それがきっかけで奴隷だったイスラエルの民はエジプトから出ることが叶いました。このときの10番目の奇跡はエジプト中の初子の命が奪われるという凄惨なものでした。けれど、イスラエルの民の初子の命は奪われなかった。なぜイスラエルの民の初子は死ななかったのでしょうか。それは、イスラエルの民が払った犠牲のゆえでありました。イスラエルの民は、神様のお告げに従って、あらかじめ羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗りました。神の裁きを免れるために、家畜の命を犠牲としたのです。「罪から来る報酬は死です。」とありますように、罪の償いは命をもってするものです。神はその家の民族の血統を見られて、罪を過ぎ越したのではありません。その家の命の犠牲をご覧になられた。罪の償いとして、命が支払われているかどうかをご覧になられたのです。
 けれどです。その生贄は、決して十分ではありませんでした。彼らは出エジプトを果たしますが、相変わらず罪を犯し、その度に償いのための命を捧げました。捧げ続けました。決してもういいよとはならなかったのです。当たり前です。それは釣り合わない償いだからです。罪は本来その者のいのちをかけて償わなければならないものです。幾ら動物の生贄を捧げ続けても、神の前に立つとき、やはりその罪の償いが問われるのです。
 なるほど、じゃあ、家畜だから駄目なのでしょうか。人の命が捧げられれば、良いのでしょうか。たしかに人の命の償いは人の命でなければ釣り合いません。けれど、その人の命もまた釣り合うものなのでしょうか。
 これはよく私が話すたとえですが、ある人の娘が肝臓の病気で苦しんでいるとしましょう。娘の苦しむ姿は親にとってこれ以上の悲しみはありません。何としても助けてやりたい。けれど、なかなかドナーが見つかりません。色々と調べると、生体肝移植という方法があることを知りました。急いで先生に駆け寄って、自分の肝臓の一部を移植して欲しいと詰め寄ります。自分はどうなっても構わない。どうか娘を助けてください!親は子のために我が身を犠牲にする覚悟があるのです。ところが、それは無理だったのです。なぜでしょう。実はこの親自身が肝臓を患っていたからです。健康ではない肝臓を移植することは、当然のことながらできません。ドナーとなるための条件は幾つかありますが、最も大事な条件は、その人が健康であるということです。
 罪のための生け贄も同じです。「罪から来る報酬は死です」とありますから、罪による負債は命によって支払う必要があります。しかし、もし用意された生け贄が罪ある身であれば、それは生け贄とはなれません。その身を捧げたとしても、それは自分の罪の負債を、支払っているに過ぎないからです。生け贄となる資格は、その人が霊的に健康であること。罪の無い身でなければなりません。しかしです。人は皆、罪人である。これが聖書の教えるところです。誰も神の前に義を誇ることは出来ません。神の目に適うのは、神自身でなければ不可能です。だから、イエス様なのです。イエス様は神が用意した単なる生け贄ではありません。神が人となって来られたのがイエス様です。この方は人でありながら、神である方なのです。だからこの方は唯一神の目に適う正しい方。自分のためではなく、他の人の身代わりとして死ぬことの出来るお方なのです。このお方以外に救いが無いのはこのためです。聖書が言う救いは盲目的な信仰ではありません。そこには理由があるのです。このお方だけが私たちの罪を償う、生贄となられるお方だからです。

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