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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190210 ハイデルベルク信仰問答 問16~19

ピリピ2:6-11 「神であり人であり」

 今日のハイデルベルクの問答では、私たちの罪は、まことの神であると同時に、まことのただしい人間でなければ決して償えないと教えています。人間の罪を償うのですから、生贄は別の何かではなくて、まことの人間でなければなりません。しかし一方で、全ての人間は罪人なので、神の義に適うことはできません。神の義に適うのは、ただ神ご自身でしかありません。ですから神の前に、罪の償いとなり、犠牲の死を遂げることができるのは、まことの神であり、同時にまことの人間である、その両方の性質を併せ持つお方でなければならないのです。だからこそ私たちの仲保者となられるお方は、人としてのご性質を持ちながら同時に神でもあられる、イエス・キリストをおいて他にはいないのです。
 今日のこの学びは神学用語で言いますと、キリストの二性一人格と呼ばれるものです。救い主は神の性質である神性と、人の性質である人性を一つの人格として併せ持つお方であるという意味です。このことは神と人との仲を取り持つ仲保者としての不可欠な要素です。けれど世の常識に当てはめれば、これは全く理解できません。そのため、歴史を見ると、主イエスは神ではなくて偉大な預言者の一人だと言ったり、イエス・キリストは地上における神の仮の姿だと言ったり、実は神の被造物の最高位である天使長だったという、とんでも話まであったりします。けれど、それでは救いの計画は完成しないのです。イエス様がどれだけ正しい人で、人の中でどれだけ飛びぬけた方であっても、それが人の範疇を越えなければ、罪の影響は免れないし、神の義を満たすことは適わないのです。一方で、イエス様が神のご性質のみを持たれる方ならば、永遠なるこのお方は決して死ぬことは適わないのです。死ぬことができないとは、つまり罪の償いとはなれないということです。キリストの二性一人格は神の救いのご計画の中で理解されるべき真理です。
 さて、私たちはハイデルベルク信仰問答から学んでおりますが、このように一つ一つ順を追って確認しますと、イエス・キリストによる救いのご計画が如何に必然で、秩序だっているかがわかるかと思います。全て意味があるのです。なぜ、神である方が人となる必要があったのか。なぜ神の御子であるイエス様が死ななければならなかったのか。なぜ、このお方を救い主として信じる者は救われるのか。そして、これらのことを確認することは、私たちの救いの確かさに繋がることなのです。もちろん、救いは知識では得られません。救いは信仰によるもので、それは聖霊の働きによるものです。けれど、感情ではなくて、理性を伴う知識はその救いの確信をより確かなものとするのです。だからハイデルベルク信仰問答は、これらのことは聖なる福音によって知るのだと言っています。それは何か、超常的な閃きや感情の高ぶり、瞑想や修行の果てに得られるのではなくて、神自らが「まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し御自身の愛する御子を通してついに成就」されたこの救いを告げ知らせる福音を通して、それは得られるのだと言うのです。
 私たちは聖書に聞く必要があります。それも旧約聖書から順を追ってです。神の創造に由来する本来の神と人との関係があり、堕落によって引き裂かれた関係があり、仲保者によって再び結び合わされる関係がある。そして、この仲保者になることができるのは、神であり人である方、イエス・キリストただお一人である。これが聖なる福音の証しするところです。旧約の神は残酷な神だから読まないだとか、全てのことはイエス・キリストの愛によって上書きされたのだから、新約の恵みだけに目を留めれば良いとか、そういうことではないのです。神の救いの全体像を見る必要があります。神の言葉を前に真剣さと謙遜さを忘れてはならないのです。

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