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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190303 ハイデルベルク信仰問答 問26

ローマ8:14-17 「わたしの神、わたしの父」

 神の特徴の一つは、このお方が天地の造り主であることです。つまり、この世界の誕生する以前に神は存在されていたと言うことです。世にある神々は、この世界に依存しています。アニミズムや八百万の神などは、この世界に住み、この世界で生まれた神々です。しかし、聖書の神はそうではありません。この世界に全く依存しない神。神は全てに先立って存在される神です。ですから、神の創造は、材料を組み合わせて何かを作るといったものではありません。神が創造をされたとき、材料となるものはまだ何も無い状態ですから当然と言えば当然です。神は無からこの世界を創造されたのです。
 この無から有を生み出すということが、神の神たる所以なのです。人はその知恵によってあらゆるものを現実にしてきました。けれど、無からの創造だけは叶いません。宇宙の起源を巡っては、様々な研究がなされています。膨張する宇宙の観測から、宇宙はビックバンという爆発から始まったというのが通説となっています。けれど、その爆発するそもそもの核はどうやってできたのか。宇宙科学は、この最初の「1」の成立ちを証明することができません。あらゆる研究の分野で突き詰めると、やがて人智を超えた存在を認めなければ証明できない「1」に到着します。この「1」はどうやって存在するのか。けれど聖書はこの「1」の存在をいとも簡単に証明します。それは「0」から「1」を創り出すお方がおられるということです。ですから、天地の造り主である神を信じます。と告白することは、この御方が無からこの世界の全てを創造されたということ、そしてそれは、それ以外の一切を神として認めないという告白でもあるのです。
 では、神が無から有を生み出すことができるのはなぜか。それが、神の第二の特徴に繋がります。つまりこの御方は全能だということです。しかし、ここで注意するべきは、神は全能であって、神が何でもできるということではないということです。つまり、「何でも」という中には、罪を犯すこと、悪を見逃すこともまた含まれるわけです。では、神は罪を犯すことができるでしょうか。罪とはそもそも、被造物が創造主なる神に背を向けて、自分の思い通りに生きようとすることです。けれど神はそもそもが神なのですから、神が罪を犯すということはあり得ないのです。ですから、「神が全能である」と言うとき、それは「神が何でもできる」という意味ではなくて、「ご自身の本性と矛盾しないあらゆることをすることができる」という意味なのです。
 また、神が何かを行います。この世界を創造する。すると、創造しないという神の選択は排除されたということになります。何かを選び取ることは、選び取らなかったその他の可能性を捨てるということです。つまり、「あらゆることができる」けれども、神はその中から御自身の本性に従って最善を取捨選択して下さり、自らその可能性を制限される方なのです。ですから、神が全能ですと告白しながら、神の本性と矛盾するような祈りをすることは間違いです。全能である神を告白することは、今ある状況を、神の最善の選択の結果であることを認めることでもあるのです。
 神の特徴の三つ目は、この御方が父なる神であるということです。聖書が父なる神と言う時、それはまず、このお方が全知全能の神であり、この世界の創造主であるという前提を忘れてはなりません。つまり、このお方は、私たちとは全く違う次元のお方であって、本来私たちは神を父と呼ぶことはありえないということです。神は無限であり、私たちは有限です。神は創造主であり、私たちは被造物です。私たちは、本来、創造主なる神によって、壊されても捨てられても文句の言えない、神の意のままに存在する者なのです。ところが、神はそのような私たちを、御子キリストのゆえに、親子としての関係へと加えてくださったのです。
 「天のお父様」と呼びかけられる恵みは、計り知れないものです。神が父として、私たちに接してくれなければ、私たちの信仰は恐怖によって縛られていたことでしょう。創造の神、全能の神の前に私たちは、壊されても捨てられても文句の言えない、神の意のままに存在する者でしかありません。ところが、神は私たちを子として受け入れて下さったのです。私たちは恐怖ではなく信頼を持って、この神の前に出ることができるのです。

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